日記表紙へ

 

千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2007年8月 5日 8日 14日 17日 23日 27日 28日

 

●8月4日(土)

 暑い。熱風が吹いている。傘をさしても、下からあぶられる感じだ。厳しい。

 干した布団が砂浜みたいに熱くなり、洗濯物がばきばきに乾く。夏でよいのはそのくらいか。とにかく眠い。畳の上でころころしていたい。

 いつも思うのだけれど、夜に暑いと眠れなくて、昼間暑いと眠ってしまうのはなぜだろう。

 

 今日は8月4日。1911年の今日、楊篤生は夜汽車でリヴァプールに向かう。

 アバディーンも港町なのに、なぜわざわざ何時間も揺られて行かねばならないのか。帰りたかった、帰って満人を一人でも二人でも殺してから死にたかったと篤生は言っている。けれども祖国は遠すぎたと。英語がまずくて銃を入手することもできなかったと。

 まとまった金(たぶん有り金全部)を持って出ているから、少なくともアバディーンに戻らぬ覚悟はあったのだろう。

 でも、彼が本当のところ何を考えていたのか分からない。もういい加減、普通ではなかったようだし。

 

 

●8月5日(日)

 楊篤生没後96年。

 前後の詳しいことは一昨年に書いたので省く。

 

 喜びの少ない日々。少々滅入っている。

 

 

●8月8日(水)

 猿楽町でビルの壁に小さなでんでん虫がはりついていたので、猿楽町でんでん虫と命名した。

 日本橋川には巨大鯉が数匹とカルガモが三羽。

 そして蝉しぐれ蝉しぐれ。

 道を歩く時は気をつけよう。そこら中、ミミズやコガネムシの死骸だらけだ。水道橋の駅前でぺしゃんこにつぶれていたのは、コガネムシにしては大きすぎるし、ある種の昆虫(名を出すのも嫌だ!)よりも大きいようだし、真っ黒だし、もしかしてカブトムシだったのかもしれない。子どもが落としたのだろうか。

 

 

朝青龍が繊細で気が小さいなんて、今さら驚いたように言わないでよ。

もうだいぶ前にNHKで言っていたよ。最後の塩を取って、キッと見据える視線の先にあるのは、花道の奥の付け人だって。

大丈夫だって自分に言い聞かせて鼓舞しなければ、恐くて土俵に上がれない人なんだ。

確かに問題はある人で、白鵬みたいな優等生ではない。けれど、ずっと一人横綱でがんばってくれてきたのだから、あまり苛めないでちょうだい。

 だけど、変な話だが、おかげで巡業の様子が連日報道されてうれしい。今まではTVではなかなか取り上げられず、相撲雑誌のグラビア写真でしか見られなかったから。

 

 

 カスタネッツのドラマーのケンイチロウ君は広島出身で、毎年ブログに「あの日」8月6日のことを書いてくれる。亡くなったお祖父さんに小さいときから聞かされて育ったのだそうだ。

 そうやって家庭内で語り継がれている。

 

 どこの国だってそうだろう。どうして国家による「反日教育」のせいにできるのか。

 

 

●8月14日(火)

 1945年の今夜、熊谷で空襲があった。わたしの父は熊谷方面の空が真っ赤になるのを遠望したそうだ。その真っ赤な空の下に森村誠一がいたと聞く。

 この夜、熊谷だけでなく幾つかの都市が空襲を受けた。

何がなんだか、訳が分からない。分からないよ。

 

母の長兄(故人)は私立大学を繰り上げ卒業して出征し、この日、上海の近くで24歳の誕生日を迎えた。仲間にお祝いをしてもらったら、翌日「終戦」。一日ずれたらお祝いなんて吹っ飛んでいたところだったと、笑って話していた。

わたしはこの伯父とともに南京事件の資料館を訪れたことがある。無言でまわり、館を出てしばらくしてから、伯父は突然「私は大虐殺はあったと思います」と言った。何か知っていたのかも知れない。

 

 

8月17日(金)

 久しぶりに出勤。昨日よりはましだと言うが、やはり暑い。昼の散歩は自殺行為と考え、図書館で遊ぼうと思ったが、本を借り替えただけで神保町へ下りてしまった。

夫に依頼されていた本は、1軒目では700円、2軒目で千円、3軒目の店頭ワゴンで400円だったので、ここで手を打つ。

ここの店内にはずいぶん前から『宋教仁の日記』が店晒しになっている。1万円。かわいそうだけれど、買うわけにもいかない。

小宮山書店のガレージセールに、チェーホフの全集がバラで出ていて、年配の男性が1冊ずつ手にとって見ていた。

別の書店にこの間から『湘報』が出ている。2冊で2万円+税。図書館でいくらでも好きにコピーできるもん! とつぶやいて、見なかったふりをする。

 

この夏は暑すぎる。休み中、ほとんど動けなかった。千歳村から出たのは一度だけ。お供えのお菓子と、夫の誕生祝とを買いに、新宿へ出ただけ。それも、開店直後に飛び込んで、11時くらいに帰宅した。

ほかの日は、午前中に家事、午後は眠り虫。一番近いスーパーが9時開店なので、10時までには買い物を終えて、あとは家から出なかった。出られるものでもなかった。大手町の百葉箱の37度は、千歳村じゃ40度くらいになるのではないかしら。

 

一度、朝なら大丈夫かもと7時に公園へ行ったが、既に暑かった。通背拳でぴゅんぴゅん遊んだ夫は、ばて切って虫の息になった。後で聞いたら、7時には30度を超えていたそうだ。

それならと、その翌日は17時に出て19時まで遊んでみたら、暑さは幾分ましだったが、そのかわり蚊の攻撃が苛烈だった。夫が形意拳で遊んでいる間、ぼけっと突っ立って見ていたのがいけなかった。30分間も!

 

なんの。

譚嗣同は通背拳、形意拳、太極拳と、馬だの刀だのを一通り習ったそうだが、袁世凱に簡単に殺されてしまったじゃないか。つまりは巡撫のお坊ちゃんのお遊びか?

または義和団のとき。北京に八カ国連合軍が入って祖国防衛戦争になると、義和団とは関係ない名のある武術家が多数参じたそうだが、結局は負けてしまった。超人的な技で敵兵を何人も倒した達人も、ドイツ軍の一斉射撃には勝てなかったと聞く。

個人の武勇が何になる?

 

つまりは趣味の域を出るものではない。身体を動かすのが楽しいのは当然なので、楽しみで練るのはよいけれど、そこまでだ。

万一、不良に絡まれたり強盗に遭ったりした場合は、武器を持ったほうの勝ちだ。そんなことになったら、戦おうなんて思わずに、ジャッキー・チェンのようにそこらにあるもの何でも使って逃げる時間を稼ぎ、大声で喚いて周囲に助けを求めるほうが得策だ。

 

もちろん夫はそんなこと百も承知で、というよりむしろ夫がわたしにそう教えたのだけれど、所詮は文人のたしなみの域を出ないと言いながらも、彼は執拗に練り続ける。わたしは蚊に何箇所も刺されながら、ぼうっと見ている。

足元の地面は穴だらけ、頭上の木の枝々は空蝉だらけ。アブラゼミ、ミンミン、ツクツクに交じって、カナカナがひときわ高く鳴いていた。

 

ところで、腕をぴゅんぴゅん振り回す通背拳は、見ていても真似してみても楽しいけれど、本当はその手に刃物を持つのだそうだ。

そんなことしたら、危ないじゃないか。

って、当たり前だ、殺すための武術なのだから。

 

 

 

8月23日(木)

今日はあまり暑くなさそうだったので、今しかないと思って湯島の天神様へ。

 不忍池の蓮は、実になっているものもあれば、きれいに咲いているもの、まだつぼみのものもあった。

 花弁が一枚、池に浮んでいた。くぼみに小枝か何かが乗っている。小舟のようだ。端の紅いとがった部分が帆となって、風を受けてあちこちしていた。

 あまりかわいらしいので、夫に見せたいと切に思い、カメラがあればと思った。せめてことばで伝えたいと、少し練ってみた。

 おさじのような形。いや、れんげのほうが似ている。そう思ってから、なるほど、だかられんげというのかと、今さら思い至っておかしくなった。

 

 では、ちりれんげの「ちり」は何だろうと、いま辞書を引いてみたら、「散り蓮華」とあった。まさに散った蓮の花弁。誰がこんなきれいな名をつけたのだろう。

 ちなみに手元の辞書によれば、中国語では「湯匙」「羹匙」「調羮」などとなっている。湯も羮もスープやおつゆだから、そのまんまの無粋なものだ。

 ということは、日本人の造語だろうか。風雅なことだ。いつ誰が使い始めたのか、こんど図書館に行ったら巨大辞書を引いてみようか。

 

 れんげは深さがあってスプーンよりも使いやすいので、我が家ではカレーでもスープでもれんげを使う。今日からはれんげを見る目が変わりそうだ。

 

 

新聞で知ったのだが、神保町にある地方・小出版専門書店の書肆アクセスが、この11月で閉店するそうだ。驚いた、というより慌てた。

二十余年、足繁く通ったわけではないが、「おもしろい本屋さん」として常にあったし、あり続けてほしかった。数年前、遠来の知人を東京見物を兼ねて神保町を案内したとき、古書店街をながめた後で「おもしろい本屋さん」として連れて行ったのも、ここと内山書店(中国語を習っている人だったので)だった。そのとき何気なく手にとった小田原の本の、たまたま開いたページに牧野信一の縊死の模様が書かれていて、その後しばらく幻影に悩まされたのを覚えている。

そんなことはともかく。

ここでしか買えない本がたくさんある。田中正造翁関連、、石牟礼道子、奄美・沖縄関連、そして夫に因縁深いアイヌ関連などなど。アクセスに行けばいつでもあるからと、安心していたところがある。これからどうしよう。

 

早い話、アクセスがなかったら、わたしはこれから先、黒色戦線社の本をどこで買えばいいんだ?

 

 

8月27日(月)

明日の皆既月蝕は、曇りから雨になるようだ。秋霖前線が下りてくるといわれれば、しかたない。秋は来てほしい。

 いいんだ、どうせ。条件のよいときは天気が悪くなるんだ。昔っからそうさ。

 

 そんなことより、今朝の『朝日新聞』はすごい。星台先生が顔写真つきで出ていた。しかも「放縦卑劣」の四字つきで。

 『朝日』ではここのところ、東アジア近現代史を検証する特集をやっていて、アヘン戦争、日清戦争等に続き、今回は日露戦争をとりあげている。主題としては、以前NHKでやったのと同様、アジアの希望から失望へ、といったところ。全体にNHKのを詳しくした感じだが、真似たとかではなく、同じような問題意識だと同じようなものが出てくるということだろう。

 ファン・ボイ・チャウと東遊運動から梁啓超らに触れ、続いて留学生取締規則の事件へ。ここで、「留学生たちはこの措置に対し、授業のボイコットなどで反発する姿勢を示した。当時の朝日新聞はこれを『清国人の放縦卑劣』と批判し、それを読んだ留学生で革命派の活動家だった陳天華は、抗議のため東京の海に入り自殺した。」と。

 あの『朝日』が、ついに「放縦卑劣」に触れた。わたしは一昨年の星台先生没後100年の前に『朝日』に手紙を書いたのだけれど、当然ながら反応はなく、いいんだ、どうせ、と拗ねていた。

 でもここにきて、やっと触れましたね。この事件は、まじめに東アジア近代を見れば、見過ごすことはできないはずだ。ちょっとでもかじった人なら常識だもの。それにしても、単に「取締規則に対する抗議自殺」という書き方もできるところを、ちゃんと朝日新聞の記事を読んでのこととしているところは、えらいと思う。

 

 ここのところの『朝日』は実際がんばっている。ひところ「右傾」して、御用新聞みたいになっていたが、いろいろと「不祥事」やら「事件」やらを経て「ジャーナリスト宣言」を出した辺りから、ちょっと大丈夫かと思うくらいがんばっている。

 この近現代史シリーズもだが、もっとすごいのは夕刊で連載している検証記事。「あの時代」に『朝日新聞』がいかに言論を枉げていったか。軍神のでっち上げや、軍部への追従。それも、必ずしも圧力に屈したのではなく、積極的に擦り寄っていったところもあったと、史料や証言から明らかにしていっている。よくやるわ。えらいと思う。

 

 

 ところで、今日図書館に行ったので調べてきたのだけれど、お匙の意味での「ちりれんげ」は19世紀初めの洒落本に見られるようだ。江戸の粋人の思いつきなのかな。

 

 

 

8月28日(火)

 今日の『朝日新聞』「東アジアの150年」(これが正式の題名だった)。

 今日は主に閔妃について。近年再評価が進んでいて、彼女の生涯がドラマ化されたことで注目を浴びているとか。韓流ブームの中国でも、一気に知名度があがったという。

 けれども、同じく韓流ブームの中にある日本では、このドラマは紹介されていない。

 まあ、難しいでしょうね。

 でもどうだろう。日本でも放映してみてもいいのではないかしら。きれいな女優さんが演じる閔妃に感情移入した善良な日本のおばさんたちは、彼女の最期をどう受け止めるだろうか。きついだろうけれど、仕方ない。本当にあったことなのだから。

 

 この特集、次回は10月初めに「辛亥革命と民衆運動」だそうだ。

 ついに来ましたね。何が出てくるか、心して待ちましょう。

 

 

 昨日は行けなかったので、今日、星台先生んちに行き、報告してきた。『朝日』がついに謝りましたよ。謝ってはいないけど、言及したということは、そういう事実があったと認めたということは、謝ったのと同じことです。

 東新訳社の場所は正確には分かっていない。所番地と当時の地図とから、この一画というところまで突きとめただけだ。

 でも、ここのところ何となく、公園の隅の石楠花を星台先生として見ている。はじめは花の時期に、見えますか、きれいですね、と先生に話しかけていたが、そのうち石楠花自体に「先生」と話しかけるようになってしまった。

 もちろん石楠花の花期は短いから、今はただの木だけれど、通りから見える緑のかたまりに、会釈しながら歩いている。今日は近づいて見てみたら、朝顔か何かにがんじがらめにされていた。

 

 本当は彼がいつまでも神田あたりをうろうろしているとは思わない。とっくに故国に帰って、民主化運動の青年の後押しでもしているだろう。あるいは金光遊戯観音の足下に帰って、おもしろい歌でも歌っているか。

 穏やかで静かな先生のことだから後者かもしれないが、あの激情性を考えると前者かも。 

 

 

 

 

 

日記表紙へ