日記表紙へ

 

千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2007年7月 11日 25日 26日

 

7月2日(月)

 昨日はカスタネッツのライヴ。久々のワンマン。しかも、もっと久々の東名阪ツアーの最終日。そして更に久々の、実に5年ぶりのアルバム発売記念。

 チケットがいつもより高かったので不審に思っていたが、行ってみてわかった。満員だった。小さいハコに、ぎゅう詰めに詰め込まれた。男の子も多い。女の子に連れられてきたのではない子も、ちらほらいた。声もあげていた。声をあげるのは、単なる同伴者ではないからでしょ。

 2時間半たっぷり。駄言を並べている時間も多いが、それもよし。そういうときの元ちゃんは、多少怪しさを増したとはいえ、デビュー時と変わらぬかわいい顔して、あと3ヵ月ほどで40歳になるとは思えぬくらい。

 けれども曲に入ると一変する。あの目は尋常じゃない。そして吠える、怒鳴る、叫ぶ。あんなぬるい曲でよくもと思うが。

 「叫びを捨てたロックンローラー」にはなってほしくないと思っていたが、この人の場合、むしろ歳を重ねるごとに愈々激しくなっていく。昔のほうが、アンティノスが勘違いして、ほんわかほのぼの叙情ロックとして売り出そうとしたように、お嬢ちゃんたちの誤解を招くぬるさがあった。

 けど、そう言やこの人、かつて言っていた。「以前は透明なのがいいなと思っていたけれど、だんだん熱くなってきた。このままいって、四十でロッケンロー」と。本当にそうなっちゃったよ。

 人格欠損者的なうそ寒いところは、新譜では見られなくなってきているようだけれど、それは彼の人間的成長として嘉しましょう。

 だって、そうでなければ恐いもの。

 

例えばこの日もやってくれた「絵をかく」。昔お菓子のTVCMで使われたのは「大好きになれる」と連呼する箇所だが、何を大好きになれるのか。「立派な目も耳も、何にもないけどきっと大好きになれる、大好きになれる、大好きになれる、きっと。そんな自画像が描けたらいいな」って、打っていたら涙が出てきた。「全然リアルじゃない現実を泳ぎながら、描かなきゃならない絵を僕は胸の奥にずっとため続けてきた。絵を描く。絵を描く」

 まあ、デビュー前から「自分のことも分からない、僕はフィクション」と歌っていた人だから。「切り抜けてくだけの日々に迷い込みながらも、僕は僕を信じたくて、何か話しかけても、空回り僕だけが今もフィクション。次のページをめくっても、そこはフィクション」

 

 そして名曲「Though」では、「思いがけないほど人は強いから、壊れながらだって進んでいた(略)行き止まりだって、その先に続きがあって、新しい世界がそっと始まっていく」

 

新曲でも変わっていないか。例えば「ぼくとキミ」の最後。「生きていくんだ。続く、続く……」と「続く」を呪いのように繰り返す。繰り返すうち、「続く」が「続け」という叫びに変わる。

 

 

7月11日(水)

ここのところずっと、個人的にも家庭的にも少々危機的状況にあったため、七七事変70周年はどこかへすっとんでしまった。新聞の社説を見て思い出したくらいに、意識から欠落していた。とにかく、それどころじゃなかった。

 修行が足りない。ローザじゃないけど、おちついた朗らかな気持ちで日々を過ごしたいものだと、心から思う。

 

 なんとかならないものかと、湯島の天神様にお参りに行く。菅公に叱っていただき、励ましていただいてから、いつものとおり不忍池に下りる。

 蓮はまだ咲き始めで、つぼみのほうが多い。この花はつぼみまでが清らかできれいだ。観音様が手にされるのにふさわしい。

 如来蔵思想の説明として使われる例えに、しぼんだ蓮の花の花弁を一枚一枚除いていくと、そこに小さな仏様が座ってらっしゃる、というのがある。わたしはこれだけで如来蔵に飛びついて、頭が悪いくせに華厳だの唯識だのに興味をもってしまった。人は誰でもお腹の中に如来(=仏)の蔵(=胎児)がある。その仏様は、如来がご覧になったとき、ご自身と全く同じものであった。つまり誰でも仏様を持っている。仏様になれる。

 イメージとしては、蓮のつぼみの中に仏様がいらっしゃるというほうがすてきだが、それでは意味を成さないのだなと、つぼみを見ながら思った。こんなきれいなつぼみではなく、醜く情けなくしぼんだ花でないと。今は垢や穢れに覆われていても、それを取り去れば仏様になれるのだ。

 と、ことばにするのは簡単だが、実際は凡婦には難しい。あやまちを再びせず、という顔淵はすごいと思う。顔子でもしくじることがあるのか、なんて一瞬でも思ってはいけない。双葉関がすごいのは、69連勝よりも同じ相手に二度負けなかったことだと思う。凡婦は何度でも繰り返すさ。もうしません、と言った舌の根も乾かぬうちに、また同じ事をやらかしている。人格に難があるからだ。そこから直さねばならない。人格って何だ? 精神だ。

 過ちを繰り返すのは、精神に傷があるからだ。レコードみたいに傷のところで繰り返しになっているのだ。やめたと思っても、一回りして傷のところに来れば、また同じ思考法に入っていく。同じ行為を繰り返す。

だから、その傷がどこにどのようについているのか見つけて、修復しなければならない。それは分かっているのだけれど、方法がわからない。それを知る手がかりが唯識にないかと思っているのだけれど、如何せんばか頭で、まだまだどうにもならない。

 

 ボート池にカルガモがたくさんいた。ここでこんな数を見たのは初めて。遠くで奇声を発しているのは、ウミネコだろうか。観光客らしい白人男性が、蓮池に背を向けてボート池の向こうにむけてカメラを構えていた。

 蓮池では、黄色い頭のいかにもとっぽい青年が一人、柵にもたれてじっと蓮の花をを見つめていた。

 

 7月11日はモンゴルの革命記念日。若き英雄スヘバートルは未だに英雄のようだけれど、相棒のチョイバルサンはどこへ行ったやら。そして、それでもやはり人民政府成立のこの日が最大のお祭というのは、どういうことなのか。よく分からんわ。あの国にとって、「社会主義」の経験は、あの時代は、何だったのだろう。

 

 

7月25日(水)

 今日は暑かった。昨日今日とよく晴れて、セミが賑やかだ。でも梅雨明けはまだらしい。太平洋高気圧さんが今ひとつ元気がないとか。降っているときは「ガンバレ太平洋高気圧さん」と言っていたけれど、暑いとやっぱりしんどいわ。

 

 

四諦説は便利だ。とことん理詰めの仏教は、基本もやはり理詰めだから、ほかにも応用が利く。問題を解決するための思考法として優れていると思う。哲学上の問題だけではなく、つまらぬ日常の小さな不便の問題にも使える。目的外使用なのだけれど。

 

まず、現状認識。今どうなっているのか。何が問題なのかを明らかにする。仏教の場合は「苦」を認識することなので「苦諦」という。

次に、その原因。なぜ苦諦のような状況になるのかを明らかにする。仏教の場合は、自分の物じゃないものを自分の物だと錯覚してかき集めているから、「集諦じったい」という。

そして、それが解消するとどうなるか、どういう状態になりたいのかを考える。仏教では苦が滅した状態なので「滅諦」。

最後に、ではどうすれば滅諦になれるのか、具体的な方法を考える。滅諦に至る道なので「道諦」。

 

誰かが、普通は集諦→苦諦→道諦→滅諦(原因、現状、解決法、到達点)の順ではないかと言っていたが、そうではないところがミソというか、実際にやろうとすると苦集滅道の順でないとうまくいかない。

 

例えば仕事をしていて、なんかやりにくい。作業がうまくいかない。(苦諦)

なんだ、ひじが脇の棚にぶつかるんだ。それで自由に動けないからいけないんだ。(集諦)

左っ側に空間があればいいんだね。一方、右側はあまり使わないから塞がっていてもかまわない。(滅諦)

机と棚との位置を入れ替える(道諦)

あまりよい例ではないかもしれないが、まあ、ざっとこんな感じで。

 

仏教も儒教も理詰めだ。一方、キリスト教は不合理というか、なんというか。清末の知識人たちはキリスト教の教義を知って、荒唐無稽もいいところで、こんなのを奉じるのは正気の沙汰とは思えないと、みなしたむきが多いそうだ。不合理ゆえに我信ず、理屈じゃ理解できっこないから、丸ごと信じるしかないじゃん、と、そういうことか。

 

 

7月26日(木)

今週は本の週。普通は神保町に行くのは週に一度あるかないかで、都合、月三回くらいか。でも今週は、月、火、水と三日連続して足を運んだ。それも至って間抜けな事情から。

 そもそもは先週末。岩波文庫版の左伝が揃いで出ているのを発見した。これは今、家に三組くらいあるが、消耗品扱いで、いくらでも使う。切り刻もうかとすら思っている。長らく入手困難だったのが最近重版されたが、あっという間に「品切れ」に逆戻り。見つけたときに買うべし、ということになっていた。値段も安めだし、買ってしまってもよかったのだが、使うのは夫なので一応確認してからと思い、見送った。

 帰宅して相談すると、買えと。

 で、月曜に購入。そのついでにぶらぶらすると、岩波文庫のモーパッサンの短編集が店頭のワゴンに出ていた。モーパッサンは夫の大好物だが、持っている可能性があるので見送る。

 帰宅して話すと、持っていないので是非ほしいと。

 で、火曜に購入。ついでにぶらぶら歩くと、今度は明治書院版の左伝がバラで出ているのを発見。一冊1200円は非常に安い。ただ、一から三はあるが四がない。この版は原文がついているので、夫が一番使っているのはこれだ。なかなか出ないから家に一組しかなく、消耗が激しいので見つけたら買ってほしいと言われていた。けれど、四がない。たぶん一番必要なのが四だと思うのに。ということで躊躇して、見送った。

 帰って話すと、三冊でもいいから買えと。またバラで出ることもあるだろうからと。

 ということで水曜日に行くと、なぜか一と三しかなかった。誰だ、二だけ買ったのは? しかたなく二冊だけ買って帰った。それにしても安い。

 

 そして今日は図書館へ。今日から夏休み貸し出しで、九月末までまる二カ月借りられる。めいっぱい五冊借りたので、死ぬほど重かった。

二冊は夫のために周代の史書。あとの三冊は社会学の入門書。これは全部読む気はない。昨夜、いま読んでいる社会史の本の話をしたばっかりに、社会学、特に文化人類学を修めた夫に、「史学の人間は社会学的な目が欠如している」とさんざんに言われて学習を命じられたのだ。とりあえず分かりやすそうなところを見繕ってきたつもりだが、読めるだろうか。

 

 

 

日記表紙へ