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千歳村から 〜日記のようなもの      

5月4日(金)

 昨日の朝日新聞に興味深い記事があった。中国の満洲族の青年たちの間に、民族意識の高まりが見られるとか。ネットで連絡をとって、満洲語を学習したり中国史の読みかえをするなどしているそうだ。岳飛が民族の英雄とされるが、女真も中国人だからあれは内戦に過ぎないとか。太平天国の満人に対する残虐行為を問題にしたりとか。

 辛亥革命以来、旧弊はすべて満族のせいという感じになっていたことへの、反発があるとか。明治政府が徳川時代を実際以上に悪く仕立てたみたいに? ちょっと違うか。

 

 ともかく、少数民族に敏感なわたしには、捨ておけぬ問題だ。清末の志士の皆さんも、満族のことについては色々だった。

清廷は倒すべきだが、排すべきは皇族と満洲貴族であって、一般の満洲人には問題はない。復仇、満人500万みな殺しなどということは、決してあってはならない。

これが、辛亥前夜に説かれた最も穏当な意見だろうか。

そして張謇や劉揆一が五族共和的なことも唱えている。けれどもそれは、漢族との同化を前提とした、漢族中心主義ともいえるものだった。

民族自決的なことを言っているのは、何震・劉師培夫妻のようなアナキスト以外には、楊篤生くらいだ。彼は一体どこからそんな思想を紡ぎ得たのか。謎の多い人物です。

 

それもともかく。

つまりは清代という時代の評価ということなのだろうが、現代の一般の満人がその功罪について責任を負わなくてはいけないのだろうか。

どんなもんでしょ。

 

 

5月8日(火)

 一昨日、久々のカスタネッツのライブ。

思い屈するところがあって、何回か見送っているうちに、まる一年経ってしまい、慌てて参加したもの。

楽しかった。1曲目から、元ちゃんの凄い目を見ることができた。QUEは狭いから、近い近い。わたしは元ちゃん真正面の5列目にいたが、うまく間に入ったので、わたしと元ちゃんとの間には実質一人しかいなかった。(これが宮本だったら……。でもエレカシだと、ぎゅうぎゅう詰めにされて、身動きできなくなるのだろうな)

やっと聴けた新曲もよかった。「生きてるんだ、僕等。続く……続く……」呪いのようだけれど、続くんだ。よくも悪くも続くんだ。

 

楽しかったのだけれど、おかげで昨日から、ふくらはぎがぱんぱんだ。上に跳ねると後ろの人に悪いので、膝の屈伸で下に揺れるためだ。1時間半やすみなしに森光子スクワットをやったようなもの。前座、じゃない、対バンの時のも合わせれば、正味2時間くらいか。

夫は冷たく、「軟弱な。鍛練不足だ。そんなことで野音で戦えるか」と。なんの。野音には野音の戦い方がある。エレカシの場合は脚よりも腕にくる。左腕がだるくなってペンを持ちにくくなり、お箸は右でよかったなと。

 

カスタでは拳の出番はなく、こっそり胸の前で握るだけなのだ。なんで振っちゃいけないのか、ちょっと不満だ。

 

でも、つられて7月のワンマンのチケットを買ってしまった。久々のアルバム発売とのことで、楽しみだ。

 

 

5月11日(金)

 言うまでもなく、古墳はお墓です。だから、その内部のものはあっちの世界に属する。言わば、被葬者があっちへ持って行くものだ。

 であるから、それらのものは、陽の目を見てしまったならば、消えて行くべきものなのだ。保存しようだなんておこがましい。墓盗人の発想だ。

 

 仏像は美術品で、拝む対象ではないと言う人がいる。

そりゃ、言ってみればあれらは単なる木やら金属やらだ。あれら自体が観世音や文殊師利であるわけではない。それでも人は、それらの物体に観世音や文殊師利を見て拝むのだ。そこに表現された観世音の慈悲や文殊師利の智慧に感じて、その物体の向こうにある観世音や文殊師利に対して手を合わせるのだ。

それがばかげているというのなら、そんな物は木切れや金属塊に過ぎないと言い張るのなら、あなたの好きな「美術品」にしても、それは単なる布や紙や絵の具や木片や金属塊ではないのか。そうではないから、そこに表現された何かに感じるから、あなたはそれを美術品として尊ぶのだろう。

 

わたしたちはお像を見て、観音様みたいに優しくなりたいとか文殊菩薩の智慧が欲しいとか、あるいは観音の慈悲や文殊の智慧で助けていただきたいとか、でなければただ漠然と荘厳さや美しさに打たれて、自然に頭を垂れる。博物館の仏様は、お寺を出られるときに抜いてきているはずだが、そういうことになっているだけで本当に抜けきるものではないから、あまりまじまじと見るのは失礼な気がするし、なにより気恥ずかしい。それで人ごみの中でこっそり手を合わせていると、あちらも承知した風で、そっと水瓶を振ってくださったりする。

目の錯覚だって? でも先年見た青木繁の海の絵も、たしかに波がうねって動いていた。青木だけではない。動いたり光ったりする絵は珍しくない。だったら、観音様が水瓶を振るぐらい、どうってことはない。

青木の絵を見て青木が見た海につながるのと同じように、観音像を見てその背後の観世音菩薩と接することができる。違うのは、つながる先が海ではなく観世音であるということだ。物体としてのお像の向こうにある観世音=アヴァローキテーシュヴァラという人物、理念、観念、そういうものに相対して、わたしたちは手を合わせて祈るのだ。

けれども、その祈りが気持ち悪いと言われてしまえばそれまでだ。縁なき衆生は度し難い。

 

もっとも、きっかけは牛に引かれてだろうが何だろうがかまわない。スタンプラリーのつもりの巡礼で、信心に目覚めるというのはよく聞く話だ。

わたし自身にしたところが、高校生のとき見物のつもりで行ったガンダーラ展で、釈尊のあまりの美しさに、圧倒されて帰ってきた。それは信心に直結するものではなかったけれど、今でもわたしの胸の底には、あのとき見た若くて美しい高貴なお姿がいらっしゃる。

 

 

5月14日(月)

 湯島の天神様へお詣り。不忍池の蓮は、新しい葉が出始めていた。鴨がいなくなったかわりに、杭の上で亀が甲羅干しをしていた。収まりが悪くてバランスがとれぬのか、片手をしきりに振っていた。

 

 

左伝にある、斉の公子陽生が即位したときの話。

名君だった景公の没後に起った相続をめぐる内乱の後、陽生は亡命先から呼び戻されて即位する。このとき陽生は、それまでほかの公子を擁していた大貴族の鮑牧に対し、「自分が国君になれてもなれなくても、どの大夫もどの公子も殺したりしません」と約束し、鮑牧は「どなたであっても景公のお子様には変わりはありませんから」と言って陽生を迎え入れる。

しかしそのわずか2年後、陽生は言いがかりをつけて鮑牧を殺している。

 

あるいはパリ・コミューンで。はじめのうち、コミューンは言論の自由を重んじた。たとえ反革命宣伝、コミューンに対する誹謗中傷であっても、禁じることを潔しとしなかった。けれどもヴェルサイユ側はそんなこと構うわけがない。コミューンの理念や指導者たちについての悪口雑言、あることないこと書いてはパリへ送り込んだ。で、コミューン側も言論を統制せざるを得なくなる。

 

もちろん、この二つの事件は全く無関係だ。時空が隔たっているだけでなく、持っている意味が全然ちがう。

わたしが知りたいのは焦達峯のこと。1911年10月、武昌起義による湖北省独立に呼応して湖南省も独立し、革命派の焦達峯が都督に就任する。このとき立憲派の郷紳たちは焦に、「革命は文明的にやらねければいけません、満人や清朝の官僚や保守派の郷紳を殺してはなりません」と説き、焦もこれを当然のこととして首肯した。しかし立憲派はその数日後、焦を暗殺して政権を奪う。

 

この意味を解くには、焦達峯のヒューマニズムについて調べてみなければならない。彼は十代から会党と深く交わり、信頼を得ていた。焦が組織した共進会は平均地権ではなく平均人権を掲げたため、土地問題に対する無理解を示すものだといわれることがある。けれどもそれは、焦の人権感覚を示している可能性がある。

華興会が会党と結ぶときに同仇会という別組織を作らなければならなかったように(焦達峯は同仇会会員)、士人中心の革命家たちの一部に会党に対する偏見があったのは事実だ。そういう中で、焦に下層民や被差別民、水運労働者、鉱山労働者、少数民族などなどの人権に関する感覚があったのではないかと、そういう人たちの解放を考えてはいなかったかと。

ちなみに、民国は蛋民の解放令を出したそうだが、これは誰の発案なのか。そういう感覚を持っていたのは誰か。広州出身の孫逸仙だろうか。だとしたら、わたしの孫観もだいぶ変わってくる。この辺もあわせて、見てみたい。

 

 

5月15日(火)

春秋時代の国君の座は、決して安泰なものではなかった。それは国人勢力の支持なしには成り立たない。国人の支持を失うと、暴君と呼ばれ、亡命させられたり、下手をすれば弑される。そんな例はいくらでもある。ただ、国人たちも決して一枚岩ではないから、君としては国人たちの勢力の危うい均衡の上を、器用に泳ぎ渡っていかねばならないわけである。

斉の陽生(悼公)のことも、そういう文脈で捉えなければならない。

直接的には景公没後の相続争いで、わが保元の乱と同様の構図だ。名君だった老景公は、晩年になって若い夫人が生んだ子を溺愛し、年長の公子が多数いるのに、この幼児を後継に指名した。このため、景公が没するとたちまち争いとなる。そして、乱を避けて亡命していた公子陽生が呼び戻されて即位し、景公の跡を継いでいた幼児は追放されて殺される。

鮑牧がこの幼児を擁立したのは、もちろん景公の遺志に従ってのことだが、それだけだろうか。そして、公子陽生が鮑牧に約束したこと、それを鮑牧が受け入れたこと、その後で幼君が殺されたこと、結局は鮑牧も陽生に殺されたこと、これら全ての背後には、国人間のやたら複雑に絡まった事情があるのだが、面倒なので措いておく。

ともかくそうして即位した公子陽生だが、その治世は長いものではなかった。煩雑なので委細は省くが、春秋末期の国際情勢の中で、大国呉に対する申し開きのために、彼は国人たちによって殺される。彼の諡が悼公なのはそのためだ。鮑牧を殺した2年後のことである。

いくら呉が覇者になろうかという強大国であったとしても、なんら策を講じることもなく簡単に弑されてしまったあたり、悼公の支持基盤の弱さを考えざるを得ない。

 

 

5月21日(月

 昨日のこと。

半月ぶりくらいに公園へ。一年で一番、緑の気の強い時期だ。掌をひろげて雑木林を歩くと、圧力を感じるくらいだ。

 

 雑木林の陽だまりに、猫が丸くなって眠そうにしていた。この猫はいつも、わたしたちを全く気にしない。木石と同じ扱いだ。ほかの人が通ると、ぴきっと鋭く反応するのに、わたしたちが近づいても見もしない。気配を消していて、いつの間にかこちらの足元にうずくまっていたりして、驚かされる。

 眠いのねえ、と言ってながめていると、猫の背後の熊笹の茂みでガサッと音がした。風などではない、明らかに生き物による音だ。猫はぱきっと振り向くと、決然とした表情で笹薮の中に入っていった。明らかに「やる気」の、猛獣の顔だった。

 けれども、音の主は見つからない。猫は藪の中でごそごそしているが、何も見つけられないようだし、何も飛び出してはこない。

 虫か何かだったのかしらと思ったわたしの目に、不意に音の主の姿が飛び込んできた。すぐ目の前の笹叢の上に、愛らしいカナヘビがいた。生き物の気配を完全に消していて、作り物のように文字どおり微動だにしない。そのすぐ斜め下に猫の耳が動いている。動いたら負けだ! というカナヘビの思いが聞こえた気がした。

 猫の位置からは見えないので、ほんのすぐ近くなのに一向に気づかない。カナヘビは「わたしはいません」という顔で、身じろぎ一つしない。

 全くの膠着状態だ。この均衡が破れるのは、猫が諦めたときか、カナヘビがご飯になるときか、どちらかだ。前者ならよいが後者は見たくないので、わたしたちはそこを立ち去った。

 

 あの猫はいつも雑木林にいる。ご飯をくれる猫おばさんの来る広場では、見かけたことがない。孤独を愛する孤高のにゃんこなのか、あるいは犬にいじめられたことでもあるのか。雑木林は夜間は門が閉まるし犬は入れない。敵がいるとしたら、人か烏くらいだろう。一方開放公園では、常に犬が散歩している。猫にけしかけている人を見たこともある。禁止されているにもかかわらず、リードを放している人もいる。確かに雑木林のほうが安全だろう。

 けれどもご飯はどうするのだろう。狩りだけで、カナヘビや鼠やモグラや子雀で、まかなえるのだろうか。それともやはり開放公園へ出て、おばさんからもらうのだろうか。

 などと案じてみてもしかたない。わたし自身は猫にご飯をやる気は全くないのだから。

 

 夫が撮ったカナヘビ。後ろに猫の耳が見えるのだけれど、分かるだろうか。

 去年だったか、新聞の投稿写真で、猫と蛇の写真が賞をとっていた。庭園の蓮池のほとりで、猫が蛇にちょっかいを出していて、たまりかねた蛇がくわっと鎌首をもたげ、猫が驚いて跳びすさる瞬間をとらえたものだ。蛇は大口を開けていて、猫は二本足で立った形で宙に浮いていた。

 それほど劇的ではないけれど、こちらもなかなかの緊張状態なんですよ。

 

 

5月24日(木)

 明日から湯島の天神様のお祭で、町は提灯や幟でにぎやかになっていた。

不忍池にオナガガモが一羽だけいた。もうみんなとっくに帰ったのに。杭の上で嘴を背中に入れていたが、毛並みが悪く、翼が片方やや垂れているような。これで帰りそこねたのかもしれない。隣の杭ではマガモが寝ていた。アヒル化したこの鴨とともに、冬までここで過ごすのだろうか。

 

今日、陰暦四月八日は潅仏会。人類史上おそらく最高の魂が生まれた日ということになっているが、本当は釈尊がいつ生まれたか分かっていない。誕生日どころか生年さえ、説によって百年くらい開きがある。インド人のそのおおまかさが、記録魔の中国人には我慢がならず、適当な日を見繕って決めてしまった、という話を読んだことがある。四月八日という日付は全くの無根拠でもないのだろうけれど、あまり当てにならないようだ。

 それでもやはり、「この日」と決めてあったほうが、わたしもうれしい。花まつりだからといって、別に何をするわけでもないのだけれど。

 

 中国人の記録魔のおかげで、孔子の生年も命日も分かる。『春秋』を見れば、日蝕も流星雨もみんな書いてある。これはちょっと感動ものだ。もちろん同じ現象を日本でも見ていたわけで、当時の日本は最新の研究によれば既に弥生時代に入っているようだが、縄文と弥生とは截然と分かれるものではあるまいから、何百年かかけての緩やかな移行期にあたるのだろう。彼らは、昼間にお日様がいなくなったり、夜に星が雨のように降ったりするのを、どんな思いで見ていたのだろう。魯の荘公七年、紀元前687年の流星雨。

 

 話が逸れた。今日は仏教の話をする日だ。

楊昌済先生が記している。

「アバディーンにいたとき、英国学生が討論会を開き、意志の自由はあるか否かを討論した。自由に反対するものが甚だ多かったが、これは彼らの多くがキリスト教徒だからだと英国の友人が教えてくれた。このとき篤生もその場にいた。篤生はかなり仏教を信じていて、キリスト教は信じていない。彼は意志の自由を熱心に主張した。

英国の友人がこれを非難して言った。『君は誰が造ったのか』

篤生は答えて言った。『私は私が造った』

英友は目をみはって、ことばを失ってしまった」

 

さすが楊篤生。たまらなくかっこいい。のだけれど、以前読んだときは、今ひとつ意味が分かっていないところがあった。

自由意志というのは、近世以降のキリスト教徒にとって、重大な難題なのだそうな。神の意志の前に、あるいは神の意志から離れたところに、個人の意志はあるのか否か。そんなおっかない神をもたない我々にはよく分からないが、それが大問題なのだそうだ。この英国学生の討論会の議題も、それだったのだろう。

そこまでは何となく聞きかじっていたが、問題はその先だ。「吾為吾造」という楊篤生の答えは、はなはだ非キリスト教的なのは分かるが、なぜ昌済先生はこれを仏教と関連づけて捉えたのか。

いま考えると、極めて当然のことだ。わたしはまだまだ初学者だから、詳しいことは差し控えるが、それでも確かにこれは仏法の考え方だと思う。

儒仏道の三教を学問として修めるのは、当時の知識人として当然としても、篤生の仏教はそれ以上だったのだろう。昌済先生がわざわざ「篤生頗信仏教」と書いているのだから。それがわたしにはうれしい。

 

仏徒がなぜ爆弾テロを? それは今後の課題です。

 

 

5月25日(金)

 だけど楊篤生も、英語ができないと泣いていながら、訳の分からぬ哲学談義に嘴を挟んで、しかも一歩も引かないとは。クロポトキンだって、英語で読んでいるし。やはりただ者ではありません。

 

そして、こんなことを何年も経ってから書き留めている楊昌済先生は、その討論会の場で、どんな思いでいたのだろう。黙って見ていたのかな。

 

 

 明日、野音。例年と同じく、週間天気予報を見て一喜一憂する日々だった。一時はどうなるかと思ったが、晴れて暑くなるらしい。

 だけど、この時期で17時30分開演は、明るすぎて恥ずかしいだろうな。

 

 

●5月27日(日)

 昨日の野音はすばらしかった。明るくて恥ずかしいなんて、杞憂だった。1曲目の「夢のちまた」から、宮本の伸びやかで美しい声に引き込まれた。

 一番うれしかったのは「偶成」だ。好きな曲はと問われてもあげられないくらい、この曲は好きだ。日常的に口ずさんでいる。飼い殺しの鬱屈の中で、生活を手にすることもなく死にたくないと、切に思った。

「ああ うち仰ぐ空の彼方に きらりと光る夕陽あり 流るるドブのおもてを きらりとさせたる夕陽あり 俺はこのため生きていた ドブの夕陽を見るために ドブの夕陽を見るために」

 宮本はここで、石神井川と口走った。どきっとした。わたしの生家は石神井川のすぐ近くにあった。まさにドブ川で、今は知らないが当時は、泡やゴミが浮いて異臭を放っていた。沿岸の家々の排水溝が川に開いていて、そこから洗剤ぶくぶくの排水が直接流れ込んでいた。下水処理をしていなかったわけだ。そのまま海まで流れていたのか? 恐るべし、高度経済成長期。

 

 ドブの夕陽でもいいんだな。それでもいいんだな。見てくれる人がいるんだな。

 

 おもしろかったのは、ガストロンジャーのとき、「縄文時代から、平安時代から、ポンニチ人は外国が大好きなんだよ」と。「論語を読んでる」とも言っていた。先日は何かのインタビューで蘇軾の名をあげていたし。数年前の渋公でも、漢文を読んでいるが全然読めないと口走っていた。頭悪いけど賢い宮本は、自身の大好きな明治の文章のかっこよさが、漢文訓読に由来することにちゃんと気づいているんだ。

 

 宮本の歌のうまさ、美しさが際だつライブだった。終始上機嫌だった。幸せだ。

 

 

 白鵬、不知火型だって。「師匠」の竹葉山は吉葉山の弟子だから、当然と言えば当然だし、きっとよく似合ってきれいだろうけれど、うーん、大丈夫かな。若いから大丈夫かな。大丈夫だよね、きっと。

 

 

 

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