日記表紙へ

 

千歳村から 〜日記のようなもの      

4月4日(水)

 午後3時くらいからか、空が真っ暗になって嵐になったが、夜になったら星が出ている。なんなんでしょ。

 

 係争中の景勝地。

元町公園の桜は今年もみごとだ。外堀通り沿いなので、電車からも見える。わたしの昼の散歩の道でもあり、馴染み深い公園だ。

震災復興公園ということで1930年にできたこの公園は、大正モダニズムだか何だか知らないが、凝った意匠の洒落た造形美を見せている。

文京区はこの公園をつぶそうとしているそうだ。

何を考えているのか分からない。なんでも、過疎化で統廃合した学校や、老朽化した区の施設を、壊して別のところに建て直し、そこにあったものを別の場所に建て直し、というのをいくつか重ねると、結果として高層ビルができ公園が二つなくなるのだそうだ。その一つが元町公園だとか。

何のことやら、理解不能。単にお金を使いたいだけではないのか?

 

この公園はそもそも文化財であるはずなので、当然のことながら保存運動が起きている。

わたしのように、通勤電車や散歩の途次に前を通るだけの人間でも気にしているのだから、古くからの住民にとっては大問題だろう。

 

 

4月5日(木)

宋遯初君生誕125年。今日は清明節でもある。お墓参りの日です。なお、春秋の彼岸の墓参は、日本独自の風習だそうな。

それはともかく、こういう日である以上、ぜひとも遯初君のお墓参りをしたいものだが、それもかなわぬこと。せめてもと、前に友人が送ってくれた(多謝!)お墓の写真だけ拝ませてもらうことに。

 

今日は陰暦十八日の観音様の縁日でもあるので、毎朝偈だけ唱える観音経を、今朝は全文読んだ。起き抜けだったこともあり、たどたどしいことこの上ない。毎月読んでいるのに一向にうまくならないのは情けないが、気持ちがこもっていればいいやと。

仏徒だった楊篤生、金光遊戯を名のった陳星台と違い、宋遯初は仏教的な感じはあまりしないが、観音様を嫌いな人もいないだろう。

 

昼には星台先生の家に行って、今日は遯初君の生日なんですよと語りかけた。特別に親密だったというわけではないようですが、大森警察まであなたを迎えに行ってくれたのも、遺稿を調べて「獅子吼」を発見し、『民報』に発表してくれたのも、あなたの亡くなったあとで梁啓超が卑劣な仕方であなたの名を利用したとき、「星台のために」と反論を書こうとしてくれたのも、彼でした。やはりよい友だちだったのでしょう。

 

そのあと、いつもは通りの反対側からながめる元町公園に入ってみた。段差だらけで高齢者には使えないと文京区は言っていたと思うが、昼休みの勤め人や近隣のお年寄りが、大勢くつろいでいた。

古けりゃ何でも残さねばならない、というつもりはない。この公園だって、開園したときは新しかった。珍奇な造りだから、なんじゃこりゃ、と思った人もあったかもしれない。でも、そのままずっと在りつづけ、戦争をくぐって今も在る。聞けば、同時に造られたほかの震災記念公園は皆なくなってしまい、残っているのはここだけだとか。

だったら残してもよいではないか。少数の誰かの金儲けの為めに、無理やり理由をこじつけてまで潰すことはない。

そう思うのですよ。

 

 

●4月13日(金)

カート・ヴォネガットの訃報。

高校生のときはSF漬けの日々だった。なるべく広く読もうと心がけてはいたが、それでもどうしても受け付けないものもあれば、偏愛するものもあった。好きだったのは、ディックとヴォネガットとレム、特に前二者だった。

 

ディックが死んだのは、高校二年のときだ。たまたま見た新聞の死亡記事で知り、思わず声を上げた。学校へ行き、廊下で同好の友に告げると、彼女も人が振り返るほどの声を上げた。新聞を見るとき、まず死亡記事から見るようになったのは、その時からだ。ディックのブームの前だったから、本当に小さな記事で、見逃さなかったのは不思議だった。あのときたまたま目にしなかったら、そのまま知らずに過ぎて、『SFマガジン』か何かで知って大騒ぎするところだった。

 

この習慣のおかげで、ヴォネガットの訃も知ることができた。記者に思い入れでもあるのか、小さいながら詳しい記事だった。

 

初めて読んだのは『スローターハウス5』だった。とんだ乱丁本で、ページが気ままにあちこちしていた。作品自体も時空をあちこちするものだから、何だかとても不思議な具合だった。結局その本は書店に持ち込んで交換してもらったが、もちろん正しい丁合でも話が細切れであちこちすることには変わりない。けれどもそんな外面的ことはどうでもいいことだ。ヴォネガットは別に奇をてらってそんな不思議な形にしたのではない。彼は、そういう形でしか書けなかったのだ。ついでに言えば、この小説はSFだということになっていて、なるほど宇宙人は出てくるが、それもそんないびつな形でしか表現できないものを表現しようとしたからにすぎない。では、彼が表現しようとしたものは何か。

そのころ交流があった某私立高校の人たちが、この小説は「同胞を殺しに行って同胞に殺されかけた話でしょ」とまとめていた。頭のいい人はうまいことを言うなと、そのときは思った。

ドイツ系移民のアメリカ兵が、ヨーロッパ戦線でドイツ軍の捕虜となり、ドレスデンの捕虜収容所で連合軍の絨毯爆撃に遭う。そこで彼は、エルベ河畔のフィレンツェと呼ばれた中世の面影を残す美しい都市が、一夜で月面と化すのを見た。「月面」と彼はそれを表現している。死者数は少なくとも十三万というから、三月十日の東京を上回る。

(ドイツの人たちは根性を出してドレスデンの町を元のとおりに造り直したそうだが、時折TVで見る美しい街並みに、どうしても「月面」を透視したくなる。)

 

頭のいい高校生が一行で言い表すことを表現するのに、ヴォネガットはなぜ、あんなにも迂遠でいびつな方法をとったのか。前にも言ったように、それはそれしか方法がなかったからだと思う。でもその中味は。

わたしの小さな頭では、それ以上は分かるはずもなく、ただ衝撃だけはやたら強くて、以後、授業中にノートの余白に訳の分からぬことを書きつけていた。作中にあった墓碑銘、「EVERYTHING WAS BEAUTIFUL,AND NOTHING HURT」とか。呪いのような諦念「so it goes」とか、「月面」とか。

 

同じヴォネガットの『MOTHER NIGHT』もきつかった。こちらは全くの純文学。SF扱いの『タイタンの妖女』も、太田光が言うようなものではなく、身を切るようなたまらない作品だ。

 

死んじゃったか。年齢からして時間の問題だとは思っていたけれど。

滅多に思い出さない彼の噂を夫としていた、その翌日の訃報だった。虫の知らせか、単なる共時性か、わからぬが。

 

 

4月19日(木)

 左伝世界にどっぷりはまって久しい。

 

 乱世のこととて戦争ばかりしているようだが、この時代の戦争は後代と比べていくらかましな気がする。もちろん戦争なのだから命のやり取りであり、その度に多くの人命が失われ、生き残った者も非戦闘員(老幼、婦人)も、たいへん悲惨な目に遭うのには違いない。それでも、まだ古い時代の名残をいくらか残して儀礼的な要素があり、なにより良くも悪くも氏族社会の縛りが強固である。

 

春秋も末期になると歩兵の重要性が増してはくるが、それでもまだ基本的に戦車戦であり、勇者である貴族同士の戦いである。

 戦車は三人乗り。御者と車左と車右と。車左は弓を持ち、車右は戈を振るう。車左のほうが身分は高いが、車右は勇者が務めるものとされる。大将の車には車左が乗らず、大将が太鼓を叩いて全軍を指揮する。

 

 この、大将のいる軍が中軍なのだ。並みの国で上軍、中軍、下軍の三軍編成。その中軍の将が全軍の総大将となる。それは国君みずからか、それに次ぐ大貴族が務める。そして国君を送り出した国都では太子が留守を守り、万一の事態に備える。

 

 春秋期の超大国の晋は、早くから国君の力が弱まり、六卿と呼ばれる大貴族たちが実権を握っていた。この国では中軍の将が執政(宰相)となって国政をとり、その地位は六卿の間で回り持ちされた。つまり、中軍の将が大国・晋の最高権力者だった。

 

 楊篤生は「下等社会は革命事業の中堅であり、中等社会は革命事業の前列である」と書いた。

中堅とはすなわち中軍のことである。一方、前列とはそのとおり戦列の一番前に立って、真っ先に敵と衝突し、殺し殺される者である。中軍はその後ろで、進撃の鼓や退却の銅鑼を叩く。

総大将であり主力軍であるのが中軍で、それが下等社会であるということは、つまり革命運動の主体であり主力であるのが下等社会だということになる。そして前列たる中等社会は、鉄砲玉であり、真っ先に駆けていって倒される者。勇ましく戦いはするが、決して主力ではない。 

 

 

4月20日(金)

 ミーハーはいけないと強く戒めているけれど、時々たまらなくなる。いつもいつも同じ道を歩いているとき、することといえば、夕飯の献立を考えるか、エレカシかカスタの歌を歌うか、妄想するかのどれかしかない。

 

 妄想はやめられない。

 

 英国の楊篤生。家族に何か送ってやろうと思う。男の子たち(息子と女婿)には、西洋の進んだ文物を写した絵はがきを。二人ともまだ子どもだが(婿もおそらく二十歳前)、米国留学に備えて清華学校に遊学中で、いずれ故国の革命とその後の建設のために活躍する身となるはずだ。女たち、老母と妻と娘とには、きれいな刺繡のハンカチを。

 どんな顔をしてハンカチを選んだのだろう。懐中叔祖(昌済先生)と一緒に選んだのかな。昌済先生も奥さんや開慧ちゃんに送っているかもしれない。あのうっとうしい人たちも、そんなときには家庭人の顔になっていたに違いない。

 

 実際、家書にみる篤生は、えらく口やかましい夫であり父だから。

 

 それにしても。

 数えで十七の花嫁の結婚が、自分の意思によるものかどうか疑問だ。花婿は留学準備中だし、先方は息子の嫁が学業を続けることを認めているというから、相手も同じような家、先進的な士人の家なのだろう。篤生は息子に婿の名を問い合わせているから、おそらく、うちの息子にお宅の娘さんを、という親同士の話だったとのだと思う。

 篤生は湖南不纏足会理事だったから纏足はさせていないし、女学校へ行かせて勉強しろとうるさかったけれど、この結婚はどうなんだろう。「論道徳」の著者として。

 

 ひょっとしたら黄一欧みたいに、若夫婦そろって渡米しているかもしれないな。

 

 

4月23日(月)

 夫が湯治に出かけ、久々ひとりの夜。箱入り娘からそのまま結婚してしまったもので、年に数回の夫の湯治のときだけ、独り暮らしを楽しむ。二晩か、せいぜい三晩なのだけど。

 

 時々発作的に恋わずらいがぶり返す。やっぱり先生が好きだ。

 星台先生に入れ込んで毎夜お顔を拝していた学生時代から、実は気にしていた。その後しばらく忘れたふりをしていたけれど、忘れられるものではなかった。夫相手にピヨピヨと囀って、小説まで書かせてしまった。

 でも、本格的に惚れ込んだのは、家書を読んでからだ。革命家、思想家、テロリスト、ではない、生々しい個人の姿に触れたからだ。特に夫人宛のものには、恋文としかいいようのないものが幾通かある。「儷鴻吾妻」に始まり「夫守仁」で終わるそれらは、現在は公刊されているとはいえ、元来公開を前提として書かれたものではない全くの私信だから、覗き見するような後ろめたさなしに読むことはできない。

 

 厄介な人だ。

黄興さんが絶賛した美点、「思想縝密、有類精衛、文采人品亦如之、美材也」〜思想が緻密で遺漏がなく、非常に粘り強く努力するたちで、文采、人品もまたかくのごとし。たいへん優れた人材である〜が、家族に対して発揮されると、いかに細々くどくどねちねちと、口うるさい夫であり父であるか。

けれども、そんなところまでが、いいんだなあ。

 

 

ところで、昌済先生は「篤生頗信仏教」と書いておられるが、仏教って何だろう。華厳か法相あたりだろうか。わたしが仏教思想を勉強するとしたら、この辺がおもしろそうだと思うけれど。

法相かな。入門書程度しか読んでいないわたしの知識で言うのもなんだが、「吾為吾造」というのは、唯識のにおいがしなくもない。

 

 

4月24日(火

昨夜ひとりで暇だったので、先週録画したまま放置してあった鉄道番組を見た。上海発長沙行きの長距離列車。前にも同じ番組を見たような気がするが、気にしない。

 番組の終わり近く、湘江がいっぱいに映し出されると、胸苦しくなった。先生、湘江ですよと、楊篤生に呼びかけた。帰りたかっただろうな。彼が最後にこの河を見たのは、06年の夏のことだった。姉が亡くなったため、老母を慰めに帰郷したのだ。ほんの数日の滞在だった。まさかそれきり湖南の地を踏むことがないとは、思っていなかっただろうに。

 

最近は楊篤生進士説が多いようだ。曹亜伯の『武昌革命真史』に、弟の殿麟の言として、「戊戌一試春官」とあることからくる説だろうけれど、わたしは賛成できない。理由は三つある。

一つ。わたしは明清進士題名録の楊氏の頁を全部めくってみた。前から後ろから何度も繰って、目を皿のようにして探した。それでなくてもわたしの目は、楊毓麟の三文字に対してはアンテナがついているので、見逃すはずはない。諦めきれずに日を置いて何度か試みたが、見つけることはできなかった。蔡元培はあったのだけれど。

二つ目。『湘報』に戊戌の会試及第者の速報がある。新たに進士となった湘人は全部書いてあるはずだが、ここにも楊毓麟の名はない。彼は湖南維新運動の推進者の一人だったから、洩れることは考えにくい。

そして三つ目。楊昌済先生の筆による伝記「踏海烈士楊君守仁事略」にも、十五で生員になり、丁酉(1897年)に抜貢、次いで挙人になったことは記されているが、進士になったとは書いていない。いったい伝記というものには、書かれた人と筆者との関係性が表れるものだ。蔡元培先生の書いた伝記は、まるで爆弾狂一代記といったふうになっているが、これは蔡と篤生とがそういう付き合いをしていた、テロルという点でつながっていた、というだけでなく、蔡自身の性向をも示していると思う。蔡は篤生に、自分の代わりに爆弾を抱えていてほしかったのだろう。また、曹亜伯が記している「湘人」作の伝記も、急進的かつ最も過激な革命家としての楊篤生を描いたものだ。おそらく、地下活動を共にした同志か、その周辺の人物の作なのだろう。

けれども楊昌済先生は、シンパではあっても革命家ではない。彼にとっての篤生は、同族の幼なじみであり、最良の密友だった。当然その伝記は、祖国のために生きた、極めてまっとうで優れた士人としての像を描いたものとなる。そこにおいて、進士となったことを書き漏らすわけがない。

しかし伝記は、挙人になったことを記した後、いきなり留学の話になっている。政変とその後の蟄居とを省くのは分かるが、進士になったのはよいことなのだから、はばかる理由がない。

 

以上の三つの理由から、楊篤生進士説には賛成しかねます!

 

なんてことをぐじぐじ言っていると、御本人に「何を詮索してるのですか」と言われそうだ。挙人だろうが進士だろうが、科挙自体に意義がないのなら、なるほどどうでもよいことだ。

でもね、ファンとしては、納得行かない説があるのは気持ちが悪いのだわ。

 

 

 くだんの鉄道番組、今日は先週の続きで、長沙から深圳まで。思ったとおり、出発地の長沙に時間を割いてくれた。岳麓書院が大部分だったけど、ビルの並ぶ市街も見せてくれた。

 

 

日記表紙へ