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千歳村から 〜日記のようなもの      

3月2日(金)

 『朝日新聞』2007年2月28日付夕刊

「ニッポン人脈記 拝啓渋沢栄一様(10)」

渋沢栄一は、中国の革命家、孫文に実業家への転身をすすめたことがある。

 清朝を倒し中華民国を建国した孫文は、1913(大正2)年2月、東京で栄一を訪ねている。そのとき孫文46歳。栄一72歳。

 祖国の近代化への知恵を借りにきた孫文に、栄一は熱心に説いた。「利益への誘惑の多い経済の仕事こそ、あなたのような高い志をもつ人が必要だ」

 2人は中国の経済振興をはかる会社の設立を決める。だが、2週間後、中国で留守をあずかる同志が暗殺され、孫文は栄一に手紙を書く。

 「政治はほどほどにして祖国の経済建設に努力するつもりだったが、このような状況ではとても政治から手をぬくことはできない」

 栄一のひ孫の渋沢雅英(82)は「孫文はすなおな人で、栄一の説得に心を動かされ、いったんは実業をやる気になっていたのでしょう」とみる。

 

 

「留守をあずかる同志」というのは明らかに宋遯初のことだ。これはまた、ずいぶん妙な表現だ。まるで、ちょっとの間ということで国をまかせたみたいだ。

あの辺りの事情は煩雑なので、単純化したのか。それならそれで、もう少し別な書きようがありそうなものだ。

 おそらく記者は、渋沢家に残る言い伝えを渋沢雅英氏から聞いて、そのままそのとおり、ろくに調べもせずに書いたのだろう。

 いいんだろうか、それで。

 

 

3月6日(火)

 陳星台先生生誕132年。優しく穏やかでもの静かで、且つ熱く燃えたぎる、高貴で稀有な魂の生まれた日。

 

 例年どおり、お昼に東新訳社跡へ行って、お経をあげてきた。公園の隅の木下で、目を閉じて唱えていたら、烏が頭上で鳴き、後ろに回ってまた鳴いた。終わって振り向くと、植え込みにいて、わたしをじっと見ている。畜生が法華経を聞いて人間に生まれ変わる話はたくさんある。観音経偈も法華経の一部だから、そうして聞いていればいいことあるかもね。

 

 でも、きっと先生は成仏していない。あの方のことだから、敢えて成仏しない菩薩の道を選んでいるだろう。そして故国の有為な若者の後ろに立って、民主化運動かなにかを応援しているに違いない。

 そんな気がする。

 

 昨日の朝、小石川橋のたもとで白モクレンが咲いていた。金曜日に大きなつぼみを見て予想したとおりの開花だ。昨日の嵐に負けず、今朝も輝いてくれていた。わたしにはこの花は燭台に見える。

 日向ミズキも咲いた。こちらは蛍光色の小鈴。

 

 

●3月20日(火)

宋教仁事件の起きた日。

1913年の今夜遅く、上海駅のホームで背後から撃たれる。

この日の遯初君は妙に上機嫌で、駅の待合室で笑い転げていたそうだ。何がおかしいのか、ソファにのけぞって、涙が出るほど笑っていたとか(わたしがこの話をすると、夫は「洒脱な人だ。一生分笑っていったんだね」と)。

同席していた陳其美だか于右任だかが、「笑っている場合じゃないよ。袁世凱が君を狙っているらしい」と警告しても、「革命家が暗殺するならともかく、革命家を暗殺するなんてあるか」と、よけいに笑い転げる始末。

 

もちろん、革命は政治の一つの形、一つの局面にほかならないし、この期に及んで革命家も政治家もないことは、聡明な遯初が知らないわけはない。袁世凱が自分をどう思っているかも、百も承知していたはずだ。

にもかかわらず、彼は自分を大切にしてくれている人たちの、警告も心配もみな無視して、わざわざ死地へ赴く。なぜか。

得意の絶頂にあっての自負と若さによる油断と、人は言うかもしれない。でもわたしには、これはもう決まっていたことだからとしか思えない。たとえこの日、友人たちの忠告どおり汽車を避けて船で行ったとしても、どのみちどこかで襲われて、やはり31歳の誕生日を迎えることはできなかったと思う。

そういうことはある。それはたぶん、彼自身もどこかで知っていたのだと思う。

ドイツ留学を世話してやった湖南青年に対し、彼は「自分たちは過渡期の人間に過ぎず、これからは君たち青年が祖国を建設していくのだ」と激励している。言われた青年は、「若いといっても十歳も違わず、自分だってまだ青年なのに、どうして年寄りみたいなことを言うのだろう」と可笑しく思ったとか。

もちろん遯初君だって、自分があとわずかしか生きられないとは、ゆめにも思っていなかっただろうけれど、どこか深いところで感じていたのだろう。

そんな気がする。

 

 

●3月22日(木)

宋遯初君の命日。

 彼は昨日一日苦しみ続け、今朝未明、4時40分頃、黄興さんに引導を渡されて息を引き取った。ずっと意識はあったようで、痛ましすぎる。

 

 彼の事績はもっともっと世に知らしめたい。某政治評論家がTVで、「中国は有史以来一度も選挙をしたことのない国だ」とわめいていたが、あんまりだ。

 

 日本でも、同時代の知識人なら当たり前に知っていたようだ。それも当然のこと。隣にアジア初の共和国ができてしまったことの衝撃は、大変なものだったらしい。それは大正デモクラシーにもつながっている。無様に失敗してしまった革命とはいえ、袁世凱が失敗して以来、とにもかくにも天子と名のつくものは存在していないのだし。

 

 

 昨日はほぼ1カ月ぶりに公園へ。染井吉野は3輪ほどほころびかけただけで、多くのつぼみは固そうだったが、赤い小彼岸桜はほぼ満開。鶯がさかんに鳴いていた。

 今日はこれも久々に聖堂へ。杏が咲いていた。

 

 

●3月24日(土)

 知らなかったのだけど、今日は牧野信一の命日だそうな。そういえば、子どもの入試で妻子が外出中のできごとだった。

 

 珍しく気が向いて、牧野元のブログにコメントを書いてみた。マキノの名を挙げ、元ちゃんと雰囲気が似ているように思えてならず、同県同姓だが縁者でしょうかと。

 するとうれしいことに元ちゃん自身がレスをつけてくれ、親族ではないしそんな作家は知らなかったが読んでみると。

 それでこちらははしゃいでしまい、改めてマキノのファンサイトをのぞいてみて、今日が命日だと知った次第。

 ちょっと恐い。

 元ちゃんがマキノを思わせるというのは、何年も前からずっと、いつかカスタのサイトに書いてみようと考えていたことだ。別に今でなくてもよかったのに、そんな気になったのが、よりによって今だったとは。

 

 何年か前、野音のために遠方から来た友人に神保町を案内していて、書肆アクセス(地方・小出版専門店)で何げなく手にとった小田原の本に、マキノの死の模様が書いてあった。そんな死に方をしたことを全く知らなかったので驚いたのだが、その日の野音の最中、マキノの幻影がつきまとって困ってしまった。

 

 好きだけれど熱烈なファンというわけではないのに、何か絡まる牧野信一です。

 

 

3月29日(木)

 「天気は上々 散歩にと 上野の山をおとのうた/上野の桜は八分咲き そこらでみんな大騒ぎ/花見なんぞのどこがいい 笑い顔さえひきつった……」

 

昼休み、ふと思いたって、「上野の山」を口ずさみながら、天神様経由で不忍池へ。

 歌のとおり、八分くらいの咲きかたか。常より人が多い。見たことのないソフトクリーム屋さんもいたりして。

 鴨は、目つきの悪いキンクロを主に、ホシハジロ、オナガ、ハシビロと、いつもの顔ぶれ。この人たちも、もうじき北へ帰るのだろう。

 今日はボートもたくさん出ている。若い男女の、女の子のほうが漕いでいるボートがあって、訳もなく好感を持った。

 池の端をそぞろ歩く人々は、いつもは近隣の勤め人がほとんどだが、今日はお年寄りが多いようだ。敷物を敷いて飲食している人たちもいる。かなり大きな敷物の真ん中に、ぽつんと一人で座っている青年がいた。日が暮れるまでそうしているのだろう。気の毒な。

 

 

 「世をあげ 春の景色を語るとき 暗き自部屋の机上にて

  暗くなるまで過ごし行きただ漫然と思いいく春もある

   いい季節だ どこへ行こう 不忍池など楽しかろう

   雨になれば水が増して さぞ 水鳥もおどろくだろう

忘れるだろう 忘れるだろう 今日一日のできごとなど

何をなしても忘れゆくのみで 忘れ行くさ 夢のちまたへ」

  (宮本浩次「夢のちまた」)

 

 

 

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