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千歳村から 〜日記のようなもの      

 

 12日  26日

 

2月6日(火)

 昨夜、たぬきを見た。都内に野生のたぬきがいるという噂は聞いていたが、まさか千歳村にもいるとは!

 多摩川にいると聞くし、野川、仙川などの川もあるし、屋敷林やら竹藪やらも多いから、考えてみれば不思議はないのだけれど。

 でもやっぱり驚いた。道を歩きながら、「おおい、この辺にはたぬきがいるんだぞお」と叫んでみたらおもしろいかな、などと思ってみた。

 

 

 昨年12月23日に、こんなことを書いた。

 

 今年の5月13日にNHK教育で放送した『アジア留学生が見た日本』という番組は、すばらしくおもしろかったのだが、一つ解せない点があった。ベトナムの東遊運動で来日したという少年が、黄一欧、保護者は父の黄興、寄宿先は宮崎寅蔵方と。一欧というのは中国人に成りすました偽名で、本名は黄文紀(ホアン・バン・キ)とのこと。

 これは何だ? 一欧君は黄興さんの長子で宮崎家に預けられていたが、いつから黄興親子はベトナム人になったんだ? なんなのよ? どういうことよ? 

 と、その時は夫相手にわめきたてただけだった。

 

 今になって再び気になり、NHKのHPを見たらまだあの番組が載っていたので、問い合わせのメールを出してみた。

 するとすぐに返事が来た。半年以上も経っているのに、ありがたいこと。根拠とした史料も示した、詳細かつ丁寧な回答だった。

 まるごとここに転載したいところだが、それは先方の承諾を得られてからということにして、とりあえず結論だけ。

 

 黄文紀と黄一欧とは別人である。黄文紀少年は黄興(ホアン・フン)という叔父とともに来日して宮崎家に寄留し、黄一欧という偽名を使って小学校へ通っていたらしい。

 

 叔父の名が黄興というのは、全くの偶然なのだろうか。黄興つながりで、滔天が文紀の偽名に一欧を使ったのだろうか。

 なんだか不思議な話だ。

 まあ、考えてみれば黄興さんだって本名ではない(ついでにいえば星台先生も、公文書では原名の顕宿になっている)。

 

 このとき(12月21日)NHKからもらった返事を、ここに転載することの承諾を求めていたのだが、返事が得られぬまま日が経ってしまった。別に問題のある内容でもないので、以下に掲げる。

 

 

私どもの番組をご覧下さいまして有難うございます。

見落とされがちなことに光を当てる作業を評価して

いただいたことを大いに喜んでおります。

 

さて、お問い合わせの件ですが

ベトナム人の黄興という人物の名前が

孫文の同志である黄興と同じであることは

大変に興味深いご指摘です。

しかし、この黄興と、番組の中で登場するベトナム人

黄興はまったくの別人だと思われます。

 

私どもはベトナムの独立運動の指導者

ファン・ボイ・チャウを調べる中で

彼がベトナム独立運動の中で命を落とした者たちの伝記を

綴った著書「越南義列史」に

 

 『黄文紀(ホアン・バン・キ)少年は、

  叔父の黄興(ホアン・フン)と共に来日し、

  偽名を名乗って日本の小学校に入学した』

 

と記してあったことをもとに紹介しました。

  

その小学校が礫川小学校であることは

日本の学者の後藤均平氏が「越南義列史」に基づいて

著した「日本の中のベトナム」に紹介されていたことから

知りました。

 

黄文紀と中国人革命家黄興の息子の黄一欧の関係については

同一人物ではないことは間違いありません。

それ以上に、二人に何かの関係があったかどうか、今回の

取材の中で得た情報の中にそれを示すものはありません

でした。

 

確かなことは、ベトナム人の黄文紀という人物が20世紀初め

の日本に、祖国独立の夢を抱いて留学し、志半ばで斃れた。

彼の叔父は黄興という名のベトナム人だったということ。

 

そして、明治時代、日本に来た中国人は偽名に日本名を使っ 

ていますが、日本に不法入国していたベトナム人は、

中国名を使って”中国人”になりすまし東京などに潜伏して

いたということです。

 

お問い合わせ有難うございました。

今後とも、ご不審の点があれば出来る限りお答えいたします

ので、どうかよろしくお願いいたします。

 

「ETV特集」担当

NHK視聴者コールセンター

 

 

 

2月12日(月)

都路華香展(国立近代美術館)のこと。

金曜日の夕刊で紹介記事を見るまで、名まえを聞いたこともなかった。気に留めたのは、その記事の画を見たからだ。これは実物と違うと思った。「緑波」というその画は、金色に光っているように見える。こんな印刷でこんななら、本物はきっと、もっと強く輝いているはずだ。その本物を見たいと思った。

印刷は絶対に本物とは違う。わたしもかつては展覧会の売店で絵はがきを買ったこともあったが、印刷を見ると必ずがっかりする。学生のとき放送論の授業で、藤久ミネ先生が「複製芸術にはアウラ(オーラ)がない」とおっしゃっていた。当時は何のことか解らなかったが、今は解る気がする。形はそっくり複写されているようでも、何か肝腎なものが、つぶれて無くなってしまっているようなのだ。

竹橋の近代美術館なら、学生時代から最も足を運んでいる美術館だし御茶ノ水から歩けるので、気軽に行くことができる。3月4日までということで日もあるから、そのうち行ってみてもいいかもしれないと思った。

 

土曜日、新宿へ出る用事があったので、竹橋まで足を伸ばそうかと思った。が、そんなに強く思ったわけではなく、家にも用事があるし、行くか行かないか気持ちは半々で、新宿に着いたときもまだ決めていなかった。それでも成り行きで乗換え、御茶ノ水まで行ってしまった。

江戸城を目指して歩く。暖かい日で、丸紅の前で何という品種か、紅い桜が咲いていた。

 

昨日の今日で混雑するかと思ったが、杞憂だった。開館して30分しか経っていないからか、大観の「生々流転」を展示中の常設展に流れるからか、特別展は人影がまばらだった。

はじめの三幅で圧倒された。鶏の画、鷲の画、臨済禅僧の画。鶏や鷲の細密な迫力は恐いほど。それとはまったく違う風の大まかで強烈な禅師は、まるで声が聞こえるようで、師僧に一喝される兄弟子を目を丸くしてみている、小坊主の気持ちになった。吉野の桜を描いた画の、繊細な美しさもよかった。

そして、鷲を描いた大きな屏風。反対側の別の画を見ていて、振り向いてぎょっとした。恐ろしくてしばらく動けなかった。次に見た鹿の画は一転してかわいらしく、柔らかな毛は撫でてみたくなるほどだった。

スケッチも多く出ていて、これがおもしろかった。タンスの抽出みたいなものに入っていて、自由に開けて見てよいとのこと。全部の抽出を見てしまった。印象に残っているのは、蟻の画。虎の画。虎の顔を正面から描いたものには、「虎の眼光は泉の如し」というようなことが書いてあった。

 新聞にあった「緑波」は思ったほどではなかった。照明が暗いためか、光はあまり感じられなかった。

 総じて人物を描いたものは、優しい感じがした。

 

 わたしは素人だから、画の評価の仕方を知らない。評価の基準は好きか嫌いかだけだ。感銘を受けても、その画を表現する術を知らない。タッチがどうの、構図がこうのと言えればいいのだが、すごーい、きれいねぇ、おっかないわ、と、子どものようなことばを並べるしかないのがもどかしい。

 こんな画家を今まで知らなかったとは残念だ。新聞によれば近代京都画壇の秀峰のようだが、手元の人名事典には載っていない。幸野楳嶺の高弟、竹内栖鳳と相弟子とのこと。無知なわたしは、栖鳳はともかく、幸野楳嶺という人物も知らない。さすがにこちらは人名事典に載っていた。華香は栖鳳らとともに、同門下の四天王と呼ばれたとか(ほかの二人は誰?)。こんな人が知られていないとはもったいないことだ(人名事典に出ていないのだから、わたしだけが無知というわけでもないでしょ?)。今からでも知ることができたのは、幸運だったかもしれない。

 

 1871年生まれということは、楊昌済先生と同年だ。生まれ年年表に載せようかしら。

 

 昨日の日曜、朝はよく晴れた。朝焼けを映して富士が赤く染まっていた。日が上ると、青黒い山並みを前に、青空を背に、白くかっきりと浮かんでいた。これで夕方に夕焼けを背に黒々と浮かんでくれれば完璧なのだが、残念ながら午後から雲が出て、かなわなかった。

 公園では梅が八分咲き。一重の白梅、八重の紅梅。いずれも芳香を放っていた。

 

 

2月26日(月)

 昨日、夫が急に言い出して谷保の天神様へ。

 ここの天神様は、その辺りに流された菅公の御三男が、父君の訃に接して間もなく祀ったものだとか。ということは、北野や太宰府は菅公が(失礼ながら)暴れられてから祀られたものだから、谷保はそれよりも古いということになる。

 梅は今が盛りだった。いっぱいに香っていて、和やかな気に満ちていた。わたしはどちらかといえば白梅が好きだが、濃淡さまざまな紅梅もなかなかによかった。古い木が多いようで、中には幹がかなり上の方まで空洞になったものもあった。それでもたくさんの花をつけてくれていた。

 

 本当は今日、湯島へ行くつもりだったのだけれど、谷保に行ってしまったので延期。でも、今週中に行くつもりだ。境内の梅林もよいが、女坂の眺めがすばらしいから。

 

 

 

 

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