●1月5日(金)
俺が生まれたのはそう所謂高度経済成長の真っ只中で、
それは日本が敗戦に象徴される黒船以来の欧米に対する
鬱屈したコンプレックスを一気に解消すべく、
我々の上の世代の人間が神風のようにばかみたいに働いて猛然と追い続けた、
繁栄という名の、そう繁栄という名の、繁栄という名のテーマであった。
嗚呼そして我々が受け継いだのは豊かさとどっちらけだ。
あげくが人の良さそうな変な奴がのせられて偉くなっちゃって、
それでもそこそこ俺達は生活してんだから訳わかんねえよなあ。おい。
化けの皮剥ぎにでかけようぜ、化けの皮を剥がしにでかけようぜ。
「ガストロンジャー」宮本浩次
あいつらは
新しい道徳が 俺達の誠実と絶望の闘争の結果築きあげられることを
知ってか知らぬか知らん顔じゃねえか 現実重視
俺は大いに不満だよ
急げ もっともっと力をつけようぜ
そして……
「Soul rescue」宮本浩次
なかなかしょうもない正月だった。
でも今日は5月の野音を申し込んできたし、あさっては久しぶりに宮本に会える。
体調不良の身にお台場は遠いが、這ってでも行くぞ!
エレカシは今年で結成25周年とのこと。めでたい。
成ちゃんの加入は高校を出てからだけれど、それでも20年こえている。
そして来年はメジャーデビュー20周年。いよいよめでたい。
ちなみにわたしは去年でファン歴10年になった。エピック時代を知らない俄ファンだと思っていたけれど、いつの間にか長くなりました。もちろんこれからも彼らについていくつもりだ。
注)人の良さそうな変な奴=当時の首相である小渕恵三のことだが、現首相でも同じこと
●1月8日(月)
昨日のライブ。
正直な話、行けると思わなかった。夫の調子が悪すぎた。一人で行けと行ってくれるので、報告者という役割も考えた。実際、15時には家を出ねばならないのに、14時半の時点でまだ決めかねていた。それでも一応したくはして、戸締まりなどしているうちに、特に決心らしい決心もしないまま、家を出てしまった。本当に大丈夫なのかと危ぶみながら、途中の遭難もあるつもりでよろよろ歩き、ともかく座って行こうと、時間はかかるが空いている路線を選んだ。
いつもなら、なんのかんの言っても会場に入れば燃えてくる夫が、この日は全然元気にならず、平土間の最後列に陣取って、開演までの30分ほどを立禅での調整で過ごした。
なのに、客電が落ちたら、やはりいつものとおりだった。
以下、エレカシデータベースに書いたものを転載する。
はじめ、おとなしい曲が続いたので、宮本は今こういう季節なのかと思いながら、きれいな声を聴いていた。と思ったら、続いたのがえらくガラの悪い「珍奇男」だった。
思うに、宮本は新しい季節に入っているようだ。「祷ってゐた」あたりから始まっているそれは、自分への歌ではなく他者への歌。昔っから同世代の男のための歌を歌っている人だが、ここにきてそれがより鮮明に前面に押し出されてきた。
新曲がそういう曲だが、何より端的にあらわしているのが、この日の「未来の生命体」だった。「行け俺よ」を全部「行け君よ」にしていた。うれしかった。この曲が大好きで、日ごろ拳を作って熱唱しながら(口の中でだけど)神保町界隈をうろついている身としては、感に堪えず、歌詞がぐちゃぐちゃになって後半わけがわからなくなったのも残念に思う余裕もなく、嗚咽してしまった。涙ぐむならともかく、なんで嗚咽せねばならんのか? ちょっとくやしい。
「so many people」。辛亥革命バカのわたしは、この曲を聴くときはどうしても志士の皆さんの顔を思い浮かべてしまう。宮本は今回も言ってくれた。「無駄死にさ、死んじゃだめだ、生きようぜー」と。何度も頷きながら、革命のために若い命を惜しげもなく投げ出した彼らのために、もう一遍泣いた。
以上。
ZEPPってこんなに広かったっけ。後ろに陣取ってしまったため、彼らの姿は非常に小さく、たまにしか見えなかった。AXなら後ろでも大丈夫なのに。
でもあまり残念には思わなかった。見えなくてもかまわない。目を閉じて全身で音を感じていることが多かった。それでよかった。
以下に、夫が同じくDBに書いたものを。
ライブレポは別の方に任せて、焦点を絞って。
宮本が、ある種の変化を遂げたことは一目瞭然である。彼はメンバーだけでなく、我々を仲間だと認めてくれている。「敵」として喧嘩を売り、激情を叩きつけ、憎悪を吐露し、ぶちのめす相手ではなく、共に戦う同志としての、「エレファントカシマシ」の一員として。
我々が誰を敵とし、何に向かって進んでいるのか、一ファンである私が定義するのは今は差し控えたい。「どーんと」何をするのか、いかなる「勝利」をつかみとれと鼓舞されているのか、それは個人個人が読み解くべき課題であると思うからだ。
しかし仲間だと認められることは、むしろ厳しいことである。仲良しクラブの一員になった訳ではないのだから、「エレファントカシマシ」の一員であるところの私も、あなたも、なすべき何事かを当然担わなければならなくなる。カルトじゃないんで、脱会もまた自由だ。どこまでもただ、自分自身の決断に任されているのだ。
「so many people」を聴いていて、私は様々な革命のことを思った。フランス大革命、パリコミューン、ロシア革命、辛亥革命、キューバ革命……。
私は決してコミュニストではない。どちらかといえばアナキズムに近い、文学かぶれのただの中年のオヤジだ。だが、現在のこの日本の、私たちのクソ社会の、様々な矛盾と、破綻と、いかさまと、偽善と、似而非道徳と、スットコドッコイのこの腐りきった現状を、どこかでぶっとばして、ひっくり返して、栄えある第一回の社会契約を結び、社会のための私たちではなく、私たちのための社会を築きあげる日を到来させねばならないと、心中深く思っている。
そして我がエレファントカシマシという存在は、その変革の前列となる歴史的使命を負っているのではないだろうか。そんなことを、ライブ終了後感じた。
以上。
この日のZEPPは空調が悪く、とにかく暑かった。汗だくの身体で外へ出たら、台風並みの低気圧が去った後の強風で、吹きっさらしの埋め立て地は歩くのも困難なほど。皮下脂肪の乏しいわたしは、あっという間にしんまで冷えてしまった。
自宅近く、畑の間の道を歩きながら空を見た。一年で最もにぎやかな季節だ。ふたごやオリオンやシリウスや。突き刺す強風の中で激しく瞬いていた。
やっぱりやめられない。次は五月の野音だ。そのときは石くんも四十になっているし、リズム隊の二人は四十一歳。少しずつ変わりながら、ずっとこうしてやっていくんだ。彼らと一緒に年をとっていける幸せを、改めて感じた。
●1月13日(土)
昨夜のミュージック・ステーションで、「恋うた」のベスト50だか何だかをやっていた。アイロンをかけながら時々パチパチのぞき見て、わたしだったら何をあげるか考えた。
というのは嘘で、本当は考えるまでもなく即答できる。ピーズの「Hey君になにをあげよー」だ。
我らが宮本は、「恋うた」は得手ではない。書いていないわけではないが、どうにも困ったことに、彼の歌う「おまえ」は石くんを思わせてならない。それじゃいかんでしょう。
●1月14日(日)
昨日、久しぶりに公園に行った。雑木林の陽だまりで、猫が丸くなって眠そうにしていた。蝋梅が満開に近く、強い芳香を放っていた。
ここのところさかんにTVで流れている、JR東海の「うましうるわし奈良」というCMが気になる。「以和為貴、ここから始まった日本の心……」とか何とか。
日本の心というけれど、これは論語じゃないか。論語では「礼之用和為貴」だが、ここから来ているのは間違いない。この条は難解で、わたしは意味を取りあぐねているのだけれど、聖徳太子は断章取義的に使っているのだろう。そのまんまではないのだから、そこに彼の創意がある?
わたしは平安末から鎌倉初期に書かれたものを読むのが好きだが、読んでいると時々「外国では」という言い方が出てくる。「外国」というのはつまり、中国のことだ。最近あまり聞かないけど、「向こうでは」というのが、欧米、とくにUSAを指すようなものか。要するに文化的植民地根性だ。
日本版『左伝』を目指したみたいな慈円の『愚管抄』は、「漢家年代」から始まっている。つまり、盤古、三皇五帝から宋まで歴代の王朝を列挙してから、やっと神武、綏靖と「皇帝年代記」に入る。
もうちょっと前、白氏文集が輸入されて大流行したとき、清少納言がこっそり猛勉強して、中宮が「香鑪峰の雪は」と言ったら御簾をからからと巻き上げて皆を感心させたという有名な逸話がある。
もっと後、『曽我物語』なんかひどいもので、訳の分からぬ中国の古今の逸話が、これでもかと詰め込んである。それが本筋と全く関係ない単なる知識のひけらかしばかりなので、読んでいて邪魔でしかない。
なんか、悲しい。
朝鮮の歴代王朝の王は、時々こっそり朕とか詔などの皇帝用語を使っては、中国に見つかって叱られていたそうだ。でも日本は天子だろうが詔だろうが使い放題でお咎めなし。これはつまり、冊封体制の端っこの蛮夷の国で、どうでもよかったからだろう。こちらがいくら憧れようと、中国から見れば区々たる三つの島でしかないのだ。
今日、『なんでも鑑定団』の再放送で土田麦僊を紹介していた。留学して勤勉に洋画を研究し、日本画でありながら、これはゴーギャンの影響、これはルノアール風、これはマネみたい……と。これが日本の真面目な秀才だ。三岸好太郎なんかも、そんな感じがした。よく勉強して、巧みにとりいれて、偉いけど、でも一体あんたは何者だ? 何が描きたいの?
なんか、悲しい。
●1月15日(月)
犬は好きだけど猫はあまり好きではなかった。でも、公園に写真を撮りに行くようになってから、ちょっと変わってきたようだ。
撮るのは花や梢や光る葉っぱや木の赤ちゃんなどなどなのだが、猫がいると撮りたくなる。色々な動きや表情をするから、おもしろい。
公園猫は何匹もいることもあれば、全然いないこともある。午後のほうがいることが多いようだ。どれだけいるのか知らないが、たぶん四、五匹はいると思う。大半は片耳にピアスを付けている。ボランティアの人たちが手術をした印だ。
この子たちは、瞬時に人を三つに分ける。ごはんをくれる人、いじめる人、ごはんくれないけどいじめもしない人。
三つ目に分類されるわたしたちは、彼らにとっては木石と同じだ。カメラを向けても知らんぷりしていて、気ままにあさっての方角に去って行ってしまうが、かと思うといつの間にかすぐそこに座っていたりする。
匍匐前進で鳩を狙ってみたり、烏にしっぽを引っぱられたり、人に犬をけしかけられたり、停めてある車の下に潜って強風を避けたり、陽だまりでひたすら眠くなっていたり。
ひょっとしたら野良ちゃんは好きかもしれないと、ここのところ思うようになった。
●1月22日(月)
風邪で欠勤。こんなに風邪らしい風邪は久しぶり。
電車に乗らないと本が読めない。ひたすらぼうっとしている。妄想ばかり。
義平さま〜とか、維盛く〜んとか、重衡さま……とか、朝長く〜んとか、源氏も平氏もごっちゃにして、その最期の様を思い浮かべたり。
やっぱり可憐なのは朝長くん十六歳。義朝の次男、頼朝の次兄、武勇で聞こえた悪源太義平のすぐ下の弟だ。平治の乱に敗れて落ちていくとき、ばらばらに行くように父に指示されたのに、すぐに父の元に舞い戻り、意気地なしめと叱られる。すると朝長は、自分は深傷を負っているのできっと敵に生け捕られるから、それよりは御手で殺して欲しいと訴える。それを聞いた父は、「誠に義朝の子、さらば念仏申せ」と、その首をかくのだ。
なお、当時十三歳の三男頼朝は、疲れて馬上で眠ってしまって一行からはぐれ、敵に生け捕りにされて京に送られる。しかし清盛の継母が頼朝を亡息にダブらせて命乞いしたため、殺されずに伊豆に流される。その頼朝が挙兵して清盛を激怒させるのは、それから二十年後の話。
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