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千歳村から 〜日記のようなもの      

●12月7日(木)

『東京朝日新聞』明治三十八年(1905年)十二月七日

 

「清国人同盟休校   

東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ」

(文中の強調は、ゆり子による)

 

今日は陳星台先生が絶命書を書いた日なので、例年どおり旧西小川町の東新訳社附近へ。実は昨日も一昨日も行っているのだが、やはり今日は特別な感慨がある。101年前の今日ここで、彼はあの絶命書と、亡父陳宝卿のやさしい思い出とを書いたのだ。

東新訳社のあった辺りの公園は、昨日はお昼を食べる人やら、何かの撮影をする学生らしき若い人たちでにぎわっていたが、今日は寒々しい天気のためか閑散としている。

例年は人目をはばかって、あいまいな姿勢で口の中で唱えるお経を、今日はきちんと合掌して声に出して読んだ。妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五。全部読みたいところだが、諳んじているのは偈だけなのが残念だ。せめてもと、小声ながら気持ちをこめて唱えた。

星台先生の描く宝卿公とその母は、観音信者に思えてならない。優しい父を、星台先生は恨むこともできなかったのだろう

 

お経の後、先生の「大地沈淪幾百秋 砲煙滾滾血横流……」を、中文と読み下し文と交互に呟きながら、辺りを歩いた。

 

 

●12月8日(金)

 陳星台先生、没後101年。

 留学生の日記を見ると、この日、乙巳十一月十二日は晴れか曇りだったようだが、温暖化の進んだ今日よりもだいぶ寒かっただろうと思われる。四十余年しか生きていない身でも、子どものころはもっと寒かったと思うから。

 101年後の今日は、今にも降りそうな寒々しい日。なぜだか知らぬがここのところ疲労困憊しているので、繁忙期を前に休みをとって家にいた。12月8日に西小川町へ出かけなかったのは、何年ぶりだろう。

 

 星台先生を思うとき、ほかの志士たちのことを考えるときとは違う気持ちになる。うまく言えないが、肌合いが違うように思える。史上に遺した事績だけ見ると、熱血の志士そのものなのだが、個人としての陳星台には全く別の印象がある。

 誰かが鄒容と陳天華とを比べた文章で、二人は生まれた土地も、年齢も、経歴も、性格も全然違う……ということを言っていたが、「性格も」に笑った。まさにそのとおり。

 彼は悲しい人だ。

 

だからわたしは、彼が最後に書いた宝卿公の伝記が好きなのだ。星台先生は小さいときから物売りや牛飼いなどをして、貧乏秀才の父の学問生活を支えねばならなかった。けれども父は、田舎の知識人として人望があり、郷里の人々のために心を砕いて生き、自身は終生粗衣粗食だった。そしてなにより、息子にあふれるばかりの愛を注いだ。その愛があったからこそ、陳星台は父を恨むことができなかった。そして二十六歳で父を亡くすと、仕える相手を「同胞」に求め、同胞を救うための死に場所を探して生きることとなる。

などと言うと、先生はいやがるだろうか。

先生はお父さんが本当に大好きだったんだよね。それは誰も疑わない。疑えっこない。あの伝記には、お父さんへの優しい慕わしい気持ちがいっぱいだから。

「亡父は新思想に触れることはなかったが、自由平等博愛を体現した人だった」

そうだと思う。それでこそ陳天華の父だ。

 

 

12月15日(金)

 康南海先生の「礼運注」がやっと終わった……のかな。はなはだ心もとないできだが、これ以上もがいてもわたしの力ではどうにもならないので、終わったことにするしかあるまい。

 なにしろわたしは漢文が読めない。おまけに、わたしが使ったテキストには句読点がない。探したのだが、これしかなかった。これを読むというのは、無謀な話だ。

 で、悪戦苦闘した末に、なんとかでっちあげた次第。

 思い知ったのは句読点のありがたさ。これを発明した人は偉い。チャーリー・ゴードン(『アルジャーノンに花束を』)に心から賛成する。

 漢文特有の論理構造が分かってきてからは、少し楽になった。と言いたいところだが、いくらかましになった程度で、楽とはとても言えなかった。

 

 なんでわたしが康南海を? という思いはずっとあったが、それでもやってみればおもしろいことも多かった。「四霊」(麟鳳亀龍)の説明で、「亀は吉凶を知らせてくれるもの。龍鳳麟は昔はいたが今はいない。アメリカのニューヨーク、黄石園博物院には龍の骨があり、長さ数十丈で、全体がそろっている」と。恐竜の標本でも見たらしい。これが龍かと感心している姿を思うと、ちょっとうれしい。『国語』の「魯語」に、「会稽から巨大な骨が出て、一本が車にいっぱいになる長さだった」という話があるが、これも恐竜だったのだろう。「魯語」ではこれを龍の骨とは言っていないが、南海先生はきっとこの話も思い出しただろう。

 黄石園(イエローストーン?)は印象に残ったらしく、別の箇所でも言及している。熊や獅子が飼われているって。ライオンも見たんだね。

 

 

12月23日(土)

 今年の5月13日にNHK教育で放送した『アジア留学生が見た日本』という番組は、すばらしくおもしろかったのだが、一つ解せない点があった。ベトナムの東遊運動で来日したという少年が、黄一欧、保護者は父の黄興、寄宿先は宮崎寅蔵方と。一欧というのは中国人に成りすました偽名で、本名は黄文紀(ホアン・バン・キ)とのこと。

 これは何だ? 一欧君は黄興さんの長子で宮崎家に預けられていたが、いつから黄興親子はベトナム人になったんだ? なんなのよ? どういうことよ? 

 と、その時は夫相手にわめきたてただけだった。

 

 今になって再び気になり、NHKのHPを見たらまだあの番組が載っていたので、問い合わせのメールを出してみた。

 するとすぐに返事が来た。半年以上も経っているのに、ありがたいこと。根拠とした史料も示した、詳細かつ丁寧な回答だった。

 まるごとここに転載したいところだが、それは先方の承諾を得られてからということにして、とりあえず結論だけ。

 

 黄文紀と黄一欧とは別人である。黄文紀少年は黄興(ホアン・フン)という叔父とともに来日して宮崎家に寄留し、黄一欧という偽名を使って小学校へ通っていたらしい。

 

 叔父の名が黄興というのは、全くの偶然なのだろうか。黄興つながりで、滔天が文紀の偽名に一欧を使ったのだろうか。

 なんだか不思議な話だ。

 まあ、考えてみれば黄興さんだって本名ではない(ついでにいえば星台先生も、公文書では原名の顕宿になっている)。

 

 ともあれ、今思い返しても、あれはいい番組だった。わたしなんかはばかだから、星台先生が出てきただけではしゃいでしまったが、そんなミーハーはおよびでない、深刻な内容を含んだものになっていた。

 

 「恥を忍んで仇敵の国に学ぶ」。

 中国の近代はアヘン戦争に始まるといわれる。そして、東海の区々たる島国に過ぎなかったはずの日本に負けた甲午戦役の衝撃も、またたいへんなものだった。篤生はこのとき書いた論文で校経書院の山長に激賞されている。変法派から革命派へという彼の人生はこのとき始まったともいえるだろう。

 篤生も行厳も、仇敵たる日本や英国で学んでいたわけだ。鈍初君も行厳を通じて英国に学んでいた。

 どんな思いだったのだろう。

 

 

12月25日(月) 

昨日はきれいな晴天。午前中に洗濯してカーテン洗って窓拭いて買い物した。商店街にあるコロッケのおいしいお肉屋さんが、日曜定休のはずなのに開いていた。あれっと思ったが、考えてみれば12月24日に休む肉屋はないだろう。帰って夫に報告すると、世間では今日は特別な日なんだよ言われた。

午後はまるまる眠っていた。途中でむくっと起きて洗濯物を取り入れ、たたまず室内に吊るしたまま、また寝た。

夕方起きて入浴し、M1を背中で聞きながらご飯を作り、M1見ながら食べて、M1見ながら片づけた。麒麟が好きだけど、チュートリアルは確かにおもしろかったから、結果には納得。いちばん笑ったのは変ホ長調かもしれないが、これはやはり反則なのだろう。

 

今日は朝のうち曇天。そろそろ学生がいなくなって電車がすくかと思ったが、そうでもなかった。市ヶ谷のお濠になぜか鴨の姿がなかった。かわりに鵜が一羽浮かんでいた。小石川橋、後楽橋の辺りは、いつものとおりユリカモメでいっぱいだった。

 

先週、神保町で『大乗起信論』を発見し、ためらわず購入。何度も図書館で借りて、ばかみたいだから買ってしまおうと思い、ずっと探していたのだ。岩波文庫は三分の二が品切れといわれる。いつになるか分らぬ重版、復刊を待つよりも、見つけ次第買うほうがいい。

神保町の本屋さんは値打を知っているから、足元を見てエライ値をつけることも多い。けれども最近は古書が値崩れしているとか。これも千円しなかった。

 

『起信論』なんて、読んでも理解できはしない。本当の話、わたしの頭ではほとんど一つも解らない。でも好きなんだ。解らないなりに、何度でも読みたいんだ。

つい最近なにかで見たけれど、民権期の青年たちの学習会のテキスト目録に、ミルやスペンサーに交じって『起信論』があった。往時の教養書だったのかもしれない。こんな難しいもの、解って読んでいたのか。土台わたしとは素養の桁が違うのだ。

 

如来蔵思想はわたしには大きな救いだ。蔵は胎児のこと。人は誰でもお腹の中に如来、つまり仏様を蔵している。だから誰でも如来になりうる。

しぼんだ蓮の花の花弁をむいていくと、そこに小さな仏様が座っていらっしゃる。如来蔵はそんなふうにも説かれる。

 

もうひとつ。いっせんだい(断善根)と呼ばれる大悪人にも仏性はあるか(仏様になれるのか)、という問題があって、昔から議論が古来なされているらしい。もちろん、わたしには理解不能なのだが、中で一つ気に入った説がある。それは、いっせんだいの定義を「いっせんだいを志向するもの」としよう、とするものだ。

 それだと救いがあるように思える。わたしのような醜い凡婦でも大丈夫かもしれないと。

うまく言えないけれど、そんな気がする。

 

 

12月26日(火)

 今日は嵐。絶好の機会なので、わざわざ散歩に出る。雨音と傘とに隠れて、喉も口もいっぱいに開いて絶唱した。「偶成」、「月の夜」、「猫を待つ」、「月と幻」。しめくくりに「未来の生命体」を。

 

 いま読んでいる本に楊毓麟は進士だとあった。進士説、ありますね。武昌革命真史に、戊戌の一試に春官……という謎の文言があるからだろう。

 でも、わたしは明清進士題名録を何度も何度も見たが、らしき名は見つからなかった。蔡元培はあったけど、楊毓麟はなかった。

 湘報の速報も見た。湘人は全部載っているはず。ましてや篤生は同志だ。落とすことは考えられない。

 なんなんでしょう。

 

 

12月27日(水)

 台風一過のような晴天。風はまだ吹きまくる。

 朝、まだ雲の残る空で、富士が光っていた。中に電灯でも仕込んであるかのように、白い光を放っていた。

 

 新聞広告を見て、騒いでしまった。

中公文庫の新刊に、ミシュレの『フランス革命』が!

 

クロポトキンの『フランス革命史』は、アナキスト嫌いのレーニンが絶賛し、最大級の敬意をはらったという。実際、おもしろい本だ。革命の成果がいかに奪われていくか、という話。

この本でクロポトキンはミシュレをたびたび引用し、その度に決まり文句のように「ミシュレの聡明な魂は」と、ものごとの本質を的確に見抜くミシュレに感嘆している。

当然ミシュレのを読みたくなり、探したのだけれど、抄訳しか見つからなかった。

こんど出たのは全訳だろうか。二巻のようだから、可能性はある。

 

わたしは本を定価で買うことは滅多になくて、いつも高いか安いかなのだけど、これは素直に買おうか。本はあるときに買わないと、すぐになくなる。そうなると何ヵ月も神保町を歩いた挙句、びっくりするような値段で買わされることになる。

まあ、中公ならそんなにひどいことにはならないかな。岩波だと本当にあっという間になくなるけど。

 

 

12月28日(木)

 東京ドームの前、というより、ありていにいえば場外馬券売り場の前で、そこにいっぱいたむろしているおじさんたちと同じような風体のおじさんが、水道橋の方向へ歩きながら携帯電話で話していた。

 「いま新宿に着いたところ」

 

 おじさん、何のアリバイ作りをしているの? その20分ほどの時間を、どんなふうに有効に使うの?

 

 

 

 

 

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