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千歳村から 〜日記のようなもの      

11月1日(水)

「明日 飛び立つために 今日は 寝てしまうんだ」

と宮本は歌うけれど、わたしはいつも眠い。今日たくさん寝れば明日は元気かと思っても、明日もやっぱり眠いんだ。

 

 

11月は楊篤生のお誕生月間。同治壬申十月は、西暦1872年11月1日〜30日にあたるから。ちなみに今日は丙戌九月十一日で、陰暦十月は陽暦11月21日〜12月19日になる。

などと、暦に淫していてもしかたない。すべては正確な誕生日が分からないからいけないのだ。

族譜が見たい。そうすればみんな分かるのに。いま分かっているのは、母親の生年、徳鄰の生年、毓麟の生年月、克恭の生年だけ。

お父さんはいつ亡くなったのだろう。喪に服した形跡がないから、早くに亡くしたのだろうか。

気の毒な末弟殿麟は、篤生が十弟と呼ぶところを見ると、いくらか歳が離れていたのだろうか(徳鄰は二哥で篤生自身はたぶんん四だから、殿麟との間に従弟や何かが五人いることになる)。殿麟は、好き勝手に生きる、じゃなかった、我が身をも家をも顧みずに国事に身を捧げて奔走する兄たちを支え、家と老母とを守っていた。弟の負担については篤生も認識していたようで、息子への手紙で、「叔父さんは家政を見ていて病身で子どもも多く、大変なのだから、よく気を遣って礼を尽くすように」と指示している。

 楊家の族譜が見たい。まだこの世にあるのだろうか。もしあるのなら見に行きたい。彼の生まれた長沙の高橋に行ってみたい。聞けば名高い茶どころだとか。高橋の地名を関した緑茶がある。でも、中国の緑茶を飲むと、わたしは決まって胃を痛める。体質が合わないのか、淹れかたが悪いのか、分からないけれど、ちょっと悲しい。

 

 もっとも、もう何年も関東甲信豆から出られないでいる身には、国外へ行くなど夢のまた夢か。

 

 

11月9日(木)

 「美しい徳を備えた気高い魂と、それにふさわしい美しい容姿とをもった人がいたら、これに恋せずにいられるだろうか」

 「そうですね。でも、魂さえすばらしければ、容姿は多少難があってもかまいません」

 「そうか。君はそういう少年に恋をしているんだね」

 

 高校か大学のとき、誰かがそっと教えてくれた。「プラトニックラブって本当は同性愛なんだよ。女には精神性がないから、女へは肉の愛で、精神の愛は男同士なんだ。だから肉を伴わないんで、それをプラトン的性愛というんだよ」と。

 

 ここのところ、プラトンを読んでいる。恥ずかしながら、今まで全然読んだことがなかった。このたび康南海先生に「礼はギリシアの憲法だ」と言われ、慌てて勉強し始めたのだ。

 で、読んでみたらおもしろかった。こんなにおもしろいのなら、もっと早く読めばよかったと思うが、そうでもないかもしれない。だって今こんなにおもしろいのは、いちいち儒教やジャン・ジャックと照らし合わせて読んでいるからだ。

 

 それはともかく。

 はじめに掲げたのは、原文そのままではないが、意味としてはこんなもの。恋人が少年というのは、プラトンが提唱したのでもプラトンの個人的趣味というのでもなく、当時の常識らしい。あまりの当然ぶりに、驚いてしまった。

 「戦功をあげた勇士に対するごほうびは美少年の接吻にしよう」

 「それは励みになりますねえ」

 ただし、その接吻は我が子に対するような仕方のものでなければならない。なにしろプラトニックだから。

 

 徳冨健次郎の自伝的小説『黒い目茶色の目』に、同志社での学生時代が描かれている。明治元年の生まれだから、1880年代のこと。その寮生活では、同衾は当たり前。毎夜、仲のよい子の布団にもぐり込む。やはりかわいい子は人気があって、三人で寝ることもあった。ただ、「けしからぬ行為」に及ぶと、たちまち寝床から蹴り出され、殴られ非難されることとなる。やっぱり「プラトニックラブ」なのか。

 

 なんなんでしょうね。この世界は。

 

 プラトニックラブに関するわたしの誤解はもう一つあった。女には精神がないなどとはプラトンは言っていないようだ。

 むしろ、「わざわざ働き手を半分にすることはない」と言って、女も男と同じ教育を受けて同じ仕事に就かせる。男女にかかわらず、その人個人の特性に見合った仕事に。

 だから女も全裸で体育をしろってさ。

 

 

 

 宋遯初君と李和生君なんかもかなりあやしいが、楊篤生も学生時代に昌済先生が寮にお泊まりに来て、枕を並べて寝ているなあ。

 

 

11月10日(金)

 夫より示唆を受けた。恋愛相手は常に少年。少年はやがて大人になり、少年を恋人とするようになる。これはつまり、教育の効果があるのだろうと。けしからぬ行為に及んではいけないわけだし。

 

 なるほど。

 恋愛である以上、相手に自分の一番よいところを見せたいと思うだろう。立派な大人の男として振る舞うだろう。その結果、相手の少年に、「あんな大人になりたいな」という像を提供することになる。

 そういうことかしら。

 

 

11月12日(日)

 すばらしい青空。風は冷たく吹きつけるが、陽射しも強い。朝は青い山並みと白い富士がくっきりと見えた。

 午後は3時ごろに公園へ。雑木林には金色の陽が斜めにさしこんでいた。竹林も金色に光り、中に何かいそうな気がした。気は気持ちよかったが、夫の体調が悪く、短時間で帰る。

 夕方になっても山際まできれいに晴れ、ちょうど富士の辺りに日が沈んだ。30分くらいして見てみたら、夕闇の中で山際だけが赤く、富士が黒々と浮かんでいた。

こんな景色が見られるのは、隣の団地が建てかえでなくなっているから。ここに住んで16年だが、富士が見えるなんて知らなかった。けれどもそれも今だけだ。新しく建つ団地は7階建てだから、3階の我が家は、眺めどころか日照すら乏しくなるはずだ。

 

 

やはり立憲派が気になる。不審なことが多いので。

清末に立憲君主制を目指していた人たちは3通りある。イ)清政府内部の進歩派高官、ロ)郷紳層を中心とする国内の在野勢力、ハ)康有為、梁啓超らの亡命組。

 

イ)の目的はもちろん清朝の延命で、そのために五大臣だの三大臣だのを海外に派遣して視察などさせていたが、どの程度本気だったのかは検討が必要。彼らのいわゆる籌備立憲の史料は神保町で見つけたけれど、図書館にあるから買わなかった。この人たちが目指したのは、皇権の強い独日型。その憲法案はほとんど明治憲法の翻案のようだが、清帝を明治天皇にしようとしたのなら、それはかつて康有為らが光緒帝を明治天皇にしようとしたのと、どこが違うのか。

 

ハ)はいわゆる保皇派。亡命したはじめのうちは、かなり「進んだ」文献も翻訳紹介していたし、ともすれば革命に傾きそうになる梁を康が諭して引き戻すようなきらいがあったようだが、梁と民報との間で派手な論戦が繰り広げられてからは、梁自身もかなり頑なになった模様。ああ、わたしは梁啓超が嫌いだ。論戦の中で故・星台先生の名を利用するあのやり方は、卑劣漢としか言いようがない。宋遯初君もこの件では怒ってくれて、「星台のために!」と反論を書こうとしてくれた。……でも、あのめちゃくちゃかっこいい蔡松坡先生、紛れもない熱血優美な湘人革命家である蔡鍔は、湖南時務学堂で最年少ながら優等生だった人で、梁啓超の弟子でもある。

 

そしてわたしが問題にしたいのは、ロ)の勢力。結局はこの人たちが鍵を握っていたのではないかと。この人たちに見限られたことで、清朝は崩壊したのではないかと。

彼らが望んだのは、英国型の立憲君主制ではないかと思っている。天子はいるけど帽子に過ぎない。そして実はこれは、中国の数千年来のやり方なのだ。

 

左伝を読んでいるとよくわかる。よい君主とは国人たちの意をよく容れる人だ。だからできれば幼君が望ましい。その下で国人たちが実権を握る。幼君が成人して自己主張を始めた結果、国人たちに追われるという事件は、枚挙にいとまがない。暴君と呼ばれ、ひどい逸話を身にまとわされた君主の多くは、単に自分で政を執ろうとしただけだったのかもしれない。

 

興味深いのは「共和」の語。これを今の意味で使い始めたのはおそらく福沢諭吉で、いわゆる近代和製漢語の一つだ。だが、その元来の意味はというと、ことは西周末期に溯る。

紀元前9世紀、周王室の力が衰えて王が「出奔した」ために、周公と召公という大貴族が合議制で14年間に亘り政を執った。この時代を「共和」と呼ぶ。おもしろいことに、このとき王位は空位になっている。

「出奔した」というと自ら出て行ったようだが、本当は王が大貴族をさしおいて嬖臣を重用したために、国人たちが王を襲って追い出したのだ。そして「脂、(れいおう)」などという暴君用のおくり名をつけている。その後の春秋期には頻出する、内乱の典型例だ。

この周公と召公による「共和」の話は史記にあるのだけれど、別の文献では違う話になっている。脂、の時代に共伯和(きょうはくか=共という国を治める伯爵の和さん)という諸侯がいて、この人が人望があったために、王に代わって政を執ったというのだ。期間は史記と同じ14年間。いずれにせよ、王の空位時代があり、貴族たちの何らかの話し合いを基に、王以外の人間が輿望を担って政を執ったことには違いがない。

「共和」は、脂、が亡命先で死に、その太子が即位したことで終了する。脂、の出奔時に殺されるはずだった太子を、かくまって守り通したのが召公。ということは、王は召公らに頭が上がるはずがない……。

 

なお英国史では、「共和国」「共和政」(commonwealth)は、国王チャールズ1世を処刑した後の、クロムウェルの時代を指す。その後王政に戻るが、やはりうまくいかず、王を追放してその娘夫婦を王位に就けることとなる。これが名誉革命で、ここに英国の立憲君主制が確立する。英国では革命といえば名誉革命で、王を殺した清教徒革命は内乱であって革命とは呼ばないそうだが、それはともかく。

この「共和」の語を3千年近い眠りから呼び覚まして持ち出してきた人(たぶん福沢)は、commonwealthだかrepublicだかを知って、「ああ、これは共和のことだな」と思ったわけだ。王がいなくて紳士たちの話し合いで政治を執るのだから。

そして、言うまでもなく同じ教養を中国の郷紳層はもっているわけだから、彼らもやはり「共和」と言われれば、周代の「共和」を思い浮かべただろう。それなら知っていると。「共和」は異常事態ではあるが、でもそれは非常時にはあり得る形態だと。

清末にはフランス大革命、アメリカ独立革命と並んで、一連の英国革命も盛んに紹介された。その中で、「暴君を除いて紳士が政を執ったコモンウェルスは、全く周代の共和そのものだ」とか、「暴君を国外に追い出して、その娘夫婦を王位に就けた英国名誉革命は、周代の共和と似ていなくもない」と、思った人もあったかもしれない。

 

天子はいるが帽子に過ぎない。「共和」も左伝も封建時代のことだが、秦漢以降の中央集権国家になってからも、ことは変わらない。

 

古代の中国には、君主と貴族たちとの主導権争いの歴史がある。次第に勢力を増す貴族層に対抗するため、君主は自分の手足となるべき士を重用しようとする。士は最下層の貴族で、必ずしも世襲ではない。門地によらず己が才だけを恃みにするので、当時は外嬖などと呼ばれて、悪い奴扱いもされた。この人たちが官僚となっていく。孔子やその弟子たちは、その元祖だ。

「貴族」対「君主+官僚」というこの構図は、秦漢以降も続く。隋に始まる科挙は、貴族に対抗するために編み出された官僚登用制度だ。これにより、少なくとも建前上は、門地によらず本人の才のみを基準に、官僚が選ばれることになる。科挙の試験内容が儒学になったのは、理の当然かもしれない。

唐代も半ばになって科挙制度が整い、官僚制が確立する。これで天子が自分で政治を執れるかと思うと、そうでもない。今度は官僚が強くなって、やはり天子は何もしなくてよくなってくる。というより、何もしないほうが具合がよいので、聖上はハンコだけ捺していればよく、あとは官僚どもがよきに計らいます。

もともと徳治主義の儒教にはそういうところがある。聖人が制定した礼楽の制度に則って、王は北極星の如く中心にでんと座って徳を輝かせ、その周りで百官や農工商がそれぞれの分を守って自分の仕事をしていれば、世はなべてこともなく、平和に順調に回っていく、という思想がある。

皇権が強いことで知られる清朝にしてみても、光緒帝も宣統帝も幼君だ。戊戌の政変は、左伝によくある幼君が成人して親政を始めたために追放された、という型に収まってしまう。そう言い切ってしまうとちょっと悲しいけれど。

 

要は、天子を帽子にして、その下で自分たち郷紳層が好きにやると。英国式の立憲君主制を、彼らがそう理解したとしても、不思議はない。

貴族による合議制と近代の立憲君主制とを、直になぞらえるのが妥当かどうかは疑問だが、歴史的にはそういう発想があるようだ。

 

 

さて、清末の立憲派でわたしがいちばん気になるのは、革命派との距離だ。彼らは、政府の忌諱に触れて海外に逃亡した康梁派には、反感をもっていたという。ならば、朝廷を倒そうとする革命派は、康梁以上にとんでもない、言語道断な不逞の輩のはず。で、実際そう思っていた人も多いだろう。けれどもことはそう簡単ではないような気がする。

かつて中村哲夫氏が、「華興会は武装した立憲派ではないか」という説を立てていた。それは検証せねばならないことだけれど、湖南の複数の大郷紳が不審な動きをしているのは事実だ。革命派に保護や援助を与えるような。

猫っ被りの革命家にだまくらかされた? そんな純朴な人たちだろうか。否、むしろ一途な革命家たちよりもしたたかであるはずだ。清朝が存続しようと滅びようとどっちでもいいように保険をかけていたか、あるいはより積極的な意図があってのことか。

 

とりあえず見たいのは楊度。彼は立憲派を代表する理論家だが、今読んでいる本の著者は、彼の思想は康梁と根本的に違うばかりでなく、むしろ宋遯初と非常に近いという。いずれも英国を範にとり、楊が英国そのままに、「統治しない君主」を温存するのに対し、宋は「英国は形は君主でも精神は民主だ」として君主を不要のものとする。そんなところだとか。

その評価が妥当かどうか、実際に楊度の著作を見て検証してみたい。

ミーハーとしては楊徳鄰に興味があるが、著作が読めないので仕方ない。今はこの有名な才人、ある時期は相当な人望があった楊皙子にお付き合いを願いたいと思っている。

 

とはいえ、誰が読むんだい? 康有為の「礼運注」が読めないって、半べそかいているのは誰だい。句読点すらない康南海先生よりは楊皙子のほうが数段ましではあろうけど、いずれにせよ難儀するのは目に見えている。

まあ、がんばんなさい、と篤生に言ってもらいたいけれど、南海だ皙子だっていうのでは、それも無理かな。いずれも一時期は親しく交わった人物なのだが。

 

 

 

11月19日(日)

 恒例の秩父行。

 例年はロープウェイで山の上まで上がるのだけれど、今年は架け替え工事で運行休止中。秩父鉄道が無料の代替バスを出しているので、それで行く。急カーブ続きの山道をぐんぐん上るのが恐くて、椅子にしっかりつかまっていた。道々紅葉が美しかったが、あまり喜んでいる余裕がなかった。わずか8分で一気に上るロープウェイのありがたさが分かった。

 寒いだろうと思って備えてはいたが、山の上は予想以上の寒さだった。売店のおじいさんの話では、朝は2度だったとか。前日までは暖かくてちょっと動くと汗ばむくらいだったのが、急に冷えたのだそうだ。けれども紅葉は寒くなくてはだめらしい。今年は今ひとつとのことで、このまま盛りになりきらずに枯れてしまうのかもしれない。

 山の上は神域で、わたしにとっては気持ちのよい慕わしい所だ。

 夫が急に立ち止まり、「鳥がいるみたい。今、音がした」と。一緒に目で探すと、ゴジュウカラが木の幹をくるくると伝っていた。この鳥を見るのは初めてだ。

 その後、食堂で昼食。ここのベランダにはひまわりの種が出してあって、ヤマガラが来る。それを見るのが楽しみなのだけど、今年はヤマガラだけでなく、ゴジュウカラやコガラも来た。入れ替わり立ち替わりやって来ては、くわえて飛び去っていく。

 

 その夜は里の温泉に宿泊。ここ数年、同じ宿に泊まっているが、今回は急に決めたのでいつもの部屋がなく、一つ高い部屋になった。これが思いのほかよく、ちょっとの違いなのだから、来年からもこちらにしたくなってしまった。

 夜、庭の紅葉がライトアップされていてきれいだった。宿のおじいさんが一緒に出てきて、わたしたちのために照明をいろいろ調節してくれた。お客さんに勧めても、寒がってなかなか見てくれないのだと言っていた。お年寄りの団体客が多そうなので、無理もないかなと思った。

 

 宿のおばさんに秩父夜祭りについて訊いた。やはり大変な人で、宿はもちろん満員。帰る時に翌年の予約をしていく人が多いそうだ。「でも、本当は観光客ではなく、土地の人のお祭りなんでしょ」と訊くと、もちろんそのとおりで、お蚕さんが終わっての祭りなのだと。

なるほどと思った。ずっと前から不思議に思っていたのだ。12月初旬というのは、秋祭りにしては遅すぎる。稲作ではなく、お蚕さんだったのか。

おばさんの話では、みんなこのお祭りに全精力を注ぐので、お正月は質素なのだそうだ。

 

 そこそこの規模のある旅館だが、仲居さんというより「おばさん」というほうがしっくりくる、そんな素朴な宿だ。

 

 

 

●11月30日(木)

 木下順二氏の訃報。

 

 わたしは氏を近くで見たことがある。学生のときだから、もう20余年前のことだ。教科書裁判関係の会が、講演会や集会を定期的に催していた。そのうちの「教育基本法を読む」という回に出てみたのだ。

 会場がどこだったのか憶えていないが、広めの教室のような部屋だったように思う。そこで教育基本法の書かれた紙が配られ、これを読んで思ったことを語り合いましょうとのことだった。

 けれども、会場は静まりかえったままだった。参会者は数十人はいたはずだが、司会者が促しても誰も発言しようとしない。思ったことと言われても、漠然としすぎていて、何をどうしてよいのか。皆、とっかかりがつかめずに戸惑っているようだった。

 わたしも黙っていた。講演でも聴いてみようかという、全く受身の気軽な気分で来てしまっていたからだ。

 

会場全体が戸惑ったような居心地の悪い空気になっていたとき、会幹部の一人として前に座っていた木下氏が口を切った。

「これ、『われらは』で始まっていますね。この『われら』って、誰でしょうね」

それをきっかけに、あちこちから声が上がるようになった。起草者? 国会議員? いや、日本国民じゃないか? 国民の定義は? 制定当時に私は生まれていなかったけど、私も入ってる? 有権者か? 当事者たる子どもは入らないのか?…………。

この日、「『われら』とは何か」以外の論点が出たかどうか憶えていない。実を言えば、この日の集会について憶えているのは、このことだけなのだ。

閉会の挨拶で、主催者の一人で法律の専門家らしい人が言っていた。今日の議論は法学的には間違っているが、おもしろい、意義のある議論なので黙って聴かせてもらったと。

わたしは素直に感心していた。根本から問う、大前提のそもそもから疑ってみるということを、木下氏に教えてもらった気がした。

 

あのとき読んだ教育基本法が改悪されようとする今、木下順二氏の訃を聞くとは。

 

「われら」って誰でしょう。こんな大事な法律を決めるのに、わたしは賛否の意思表示をする機会をもっていない。それでも、わたしも「われら」に入っているのだろうか。

 

 

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