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千歳村から 〜日記のようなもの      

10月2日(月)

 江標、字は建霞。江蘇省元和の人。1860年〜1899年。以下、年齢は全て「数え」で計算します。

 光緒己丑というから1889年(光緒15年)、三十歳のときに進士になり、翌年に翰林院に入る。翰林院というのは、むかし東洋史概説か何かで「大学院のようなもの」と教わったが、進士及第者のうち優秀な者が、つまらぬ官職に就かずに勉強を続けるところ。要するに政府高官候補生の集まりだ。

 

 そして94年に湖南の学政(=省の教育長官)になる。なぜあのころ変法派の人間が湖南に巡撫や学政として集まったのか、単なる偶然なのか、誰かの意図(誰の?)なのか、はっきりしない。お人形さんの幼君の立場から脱して親政を始めたばかりの、さいてん君(光緒帝)による実験だったらおもしろいけど、何とも言えない。ちなみにさいてんは71年生まれ。戊戌の年(光緒24年)には二十八だった。光緒13年から親政を始めたことになっているが、西太后が十七歳の少年に実権を渡すわけがない。

 

 ともかく、江標が学政として湖南に赴任してきたところから、全てが始まった。彼は譚嗣同らの書院の改革を認め、さらに自ら校経書院の改革に着手。このとき同書院の学生だったのが楊毓麟。彼は日清戦争時に際して書いた論文で山長(院長)から激賞されていたし、長沙では「両楊」だとか「三楊」などと言われて有名な俊才だったらしい(この「両楊」「三楊」というのが誰々なのか、伝記作者によって違う。毓麟伝では毓麟と度、昌済伝では毓麟と昌済、コ麟伝だと毓麟、コ麟、昌済。この顔ぶれだと科挙的には楊度が一番優秀だろうけど、あの人は「政治変色龍=カメレオン」呼ばわりされるほど評価の難しい人だから、筆者にも色々思惑が交じるのだろう。楊度の名を挙げているものも、烈士楊篤生に比べて楊度めは……という扱いだし)。

 で、丁酉の歳(1897年)に楊毓麟を抜貢に。このとき、唐才常なども一緒に抜貢になっている。抜貢とは12年に一度、生員のうちで特に優秀な者を選んでとりたてること。これでも官途に就けるけれど、毓麟はさらに郷試を受けて挙人になる。

抜貢を選ぶのはもちろん学政。郷試は誰の答案か分からないようにして厳正に行われるが、なにせ問題を作るのは学政だから、思想を同じくする者が有利なのは当然のこと。ちなみに遯初君は、廃止前の最後の郷試を「記念に」受けたが、「よく書けたけど出題者の意図を無視したから落ちるよ」と言っていて、本当に落ちた。そういう試験です。

 

97年10月に同じ変法派の徐仁鋳と交代するまで、江標は湖南で変法運動を推進した。しかし、湖南を離れて次の任に就く前に、戊戌の政変が起きて失脚。自宅に監禁される。そして翌99年に肺疾を得て世を去っている。行年四十。がっかりしちゃったかな。

 

彼がなぜ変法思想を抱くに至ったかは不明。彼は詩はもちろん書画にも秀でていたというから(思文閣の美術人名辞典にも出てる)、ごくまっとうな士人として、そして若い高級官僚として、国事を憂えていたのだろう。

楊毓麟も昌済とともに康有為の著書などとりよせて研究していたわけだから、この学生が江標の目に留まるのは当然か。

 

ここでミーハー的に思い浮かべて喜んでみる。江標は庚申の生れだから壬申生まれの楊毓麟とはちょうど一回り違う。97年の時点で三十八歳と二十六歳。お互いきらきらお目々だったのだろうな。で、熱く語り合ったに相違ない。

その9年後、三十五歳の楊毓麟は東京で二十五歳の宋教仁と頻繁に会っていた。各国の政治制度についての文献の翻訳をさせていたのだけれど、それが革命後の新国家を建設すべき若い宋にとってたいへんな勉強になったのはいうまでもない。楊がその仕事に宋を選んだのが、わたしにはうれしい。彼等はふたりで飲んで、孫逸仙の悪口大会なんかもしている。

そのさらに7年後。三十二歳の宋教仁は同郷の青年のドイツ留学の世話をし、この青年に言っている。自分は過渡期の人間に過ぎず、これからは君たち若者が祖国を建設していくのだと。それを聞いた青年は、若いといっても10歳も違わず、自分だってまだ青年なのに、なぜそんな老人みたいなことを言うのかと、おかしく思った。けれどもそれから間もなく、宋教仁は世を去ることとなる。

 

なんて、ずるずると連想してみた。

 

なお、江標の後任の学政は徐仁鋳だが、その父の徐致靖はさいてんの側近で、やはり変法派だ。となると、さいてんとその周辺の意図というのもありそうだ。西太后一派との確執とか、生臭いにおいもしてくる。

さいてんが変法を採用した(百日維新)のは徐致靖の進言による。徐致靖は政変で「永遠監禁」となり、義和団のときに八カ国連合軍が北京に入城するまで出獄できなかったとか。

 

 

●10月8日(日)

 「日々の暮らしに背中をつつかれて それでも生きようか死ぬまでは」

 「敗北と死に至る道が生活ならば」

 10回目の参加になる昨日の野音は、全身でがんがん踊りながらも、ことばの一つひとつ、音の一つひとつを身体に刻みつけるライヴだった。

 「昔の侍」では、星台先生を思った。彼は士であって武士ではないけれど。

 「歴史」で「死に場所が大事だ」と繰り返す宮本。わたしは、大森海岸、リヴァプール、上海駅とつぶやいた。

 宮本、たばこを減らしたそうだ。夜に咳が出るのでたばこを減らしたら、咳も治り、声も良く出るようになったと。拍手が湧くと、「いや、拍手してもらうようなことでは」と言ってから、「ありがとう」と言ってくれた。わたしはずっと心配していたんだ、宮本のたばこのこと。健康のこと。あの拍手で、みんなもそう思っていたことが分かってうれしかったし、「ありがとう」で、その気持ちが宮本に通じた事が分かってうれしかった。

 

 以下に夫のレポートを。某ファンサイトのBBSに投稿したものは、これの短縮版。

 

 前日ならば中止必至の悪天候。台風二個を吸収した低気圧が、猛烈な雨風を叩きつけて駆け抜け、今日は一転、好天気。嵐の余韻を感じさせる灰色のちぎれ雲が飛ぶセピア色の夕暮れの中、演奏開始。

 1曲目、ファイティングマン。幕開けにふさわしい。演奏が少し走りがちで、何度か慌てるなみたいなことを言っていた。

 「死に様が生き様だ」と言ってから2曲目、歴史。少し変わった前奏から、いつものベースの音へ。いやーよかった。今日はのどの調子がよさそう。

 3曲目、明日に向かって走れ。曲名を告げずに演奏始めてから止める。石くんのギターの音が出ていない。怒りもせずやさしく、だいじょうぶ?みたいなことを言って、曲名を告げて再開。

 4曲目、甘き絶望。テンポよく激しく歌う。トミが少し走りがちだったか。時折宮本から慌てるなの指示が出ていた。気まぐれカレンダーになっていた。俺もよく間違えるからおもしろかった。

 5曲目、孤独な旅人。聴きながら、俺も旅行行かなきゃと思った。

この後あたりで、雨降らなくてよかったですねーと。雨降ると俺も水かぶんなきゃいけないからと。

 6曲目、かけだす男。晴れの野音だから水はかぶらなくてすんだ。

 7曲目、GT。成ちゃんに声かけて、おもてに出していた。

 8曲目、ダイダイといいながらデーデ。

 ちょっと古い曲をやらせてくれと言い出して、無事なる男。みなさんの曲だというようなことを言っていた気がする。一番肝腎なのは、「だってそうだろ、こんなもんじゃねえだろこの世の暮らしは」だよな。

 さらに「もっと古い曲やらせてほしい」と言って、絶交の歌。思わず凍りついてしまった。何とも言えない、背筋が寒くなるような歌だった。珍妙なメロディーではあるが、破壊力は抜群。聴いてて何か、あせった。絶交されないようにがんばんなきゃと思った。終わった後、御本人が、「歌詞読んでびっくりしました。(20代の自分から)絶交されてしまった」と言っていた。

 何も無き一夜。イントロの段階で心臓鷲づかみ。歌い出されると本当に胸が苦しくて死にそうになった。ある意味、この夜一番のでき。最後の「机に身を寄せて」の後で、後ろの方から思わず「ヒュー」という声が上がった。気持ちは十分分かるが、静かな曲の場合、途中で声をかけるのは御法度。大向こう会としては指導を入れないわけにはいかない。

 珍奇男は浸みた。なんか鬼気迫る凄みを感じた。やはり前曲でのことを怒っているのか。

 そして、一曲忘れてましたと言って、寒き夜。これ好きなんだよね。

 それから、これはみんなのための曲なので、恥ずかしいかもしれないが聴いてくれと。友達がいるのさ。エレカシを応援し続けて10年。やっと友達呼ばわりしていただけるようになりました。光栄です。

 そして久しぶりの、あなたのやさしさを。これ好きだったからうれしかった。

 で、生命賛歌。これはやはり気ちがいになる。自分がどこにいるんだか分からなくなる不思議な感じがした。宇宙の中に浮かんでいるような、あるいは原生林の中にたたずんで暴風雨に揺れる巨木を怯えながらながめているような、そんな不思議な感じがした。

 地元のダンナ。まだまだゆかなきゃならない。本当に自分もそう思った。

 本編終了。

 アンコールは楽器の調整が終わると同時に登場。

 シグナル。本人非常に苦しそう。これは高音で始まってサビを中音でやるしか手がない曲。自分で創った曲なんだから仕方がないけど、もどかしさが伝わってかわいそうだった。

 それからいよいよ、晩秋の一夜。きっとやってくれると思っていたが、実際に聴くとやはりこたえられません。あーの部分はさすがにはしょっていたようだが。最後の歌声が消え、虫の音が聞こえ、やがて拍手のさざめきが大きく波のように広がっていく。この美しい曲にふさわしい終わりかたであった。

 そのあと、まだまだ古い曲やらせてくれ。これが俺ん家だと思ってみたいなことを。光栄極まりない。

 過ぎゆく日々。出だし少しはしょってしまったけれど、大好きな「この俺は高きを見つめ」はちゃんと歌ってくれた。最後の「酒を飲んだ、本を読み散らした」の辺りは、思わず涙が出そうになった。

 石くんに何か言っておもてに出してから、夢の中で。次いでゲンカクGetUpBaby。拳振り上げ、「ゲンカクゲットアップベイビー」と叫びながら、ふと我に返って、不思議なこと叫んでるなと思ってしまった。

 そして極楽大将。この歌好きなんだわ。とにかくライブでは最高潮に盛り上がる。間奏の途中で、「アメリカだって核持ってんのになんで北朝鮮が」と。

 終了後のMCで、政治音痴だから誰か教えてくれ、なんでアメリカは核持ってんのに北朝鮮は持っちゃいけないのか。思わず大きく拍手してしまいました。やっぱりここは政治集会だったんだ。さーこれからデモに出かけよう。

と思ったらガストロンジャー。「変な奴が首相になっちゃって」。痛快だね。現状への怒り、社会変革の意志、そういったものをきちんと持っているからこそ、ロックなんだと私は思う。

何か言いかけて、この曲を聴いてくれとか言って、何故だか俺は祷ってゐた。エレカシの数多ある曲の中でも、これは本当に秀逸。北極星のような歌だと思った。

流れ星のような人生で、アンコール一回目しめくくり。

拍手鳴りやまず。すぐに出てきてくれる。

おじさんを休ませてくれないんだな、もっともっとやるぜ、やらせてくれ、いいな、みたいなことを言っていた。

昔の侍。たなびく雲が赤い雲になっていた。これぞまさに、美しい国日本という感じがした。どこぞの国の首相も、自決して人々を生かすぐらいの気概を持って欲しいものですよね。

武蔵野。確かに武蔵野なんだけど、これまでよりもなんか強くて新しい感じがした。

その思いを強くしたのが悲しみの果て。同じ曲なんだけど、新しい力と魂とが入っている。「悲しみの果ては素晴らしい日々を送って行こうぜ」と歌い終わってから、「わかったかー」と一喝されてしまいました。わかりました!

この世は最高!客席でコーラスしながら、でもまだ終わってほしくないと思いました。

そんな思いを察してくれたのか、もう一曲やってくれることに。どうすっかな、何やるかな、もう珍奇男はやっちまったし。みたいなことを言うと、A列の辺りからすかさず「花男!」の声が。すると本当に、いきなり「ニタリ、ニタリと」。言った人はうれしかったろうな。力いっぱい、「さ、よ、う、な、らー、さようならー」。

去りゆくミヤジをとどめる力は、さすがにもう残ってはいなかった。舞台を最後に去っていく石くんが、疲労困憊ふらふらで歩いていったのが全てを物語っていた。

約3時間、全31曲。渾身の、最高の、ライブでした。

 

以上。

友達だと言ってくれたのは本当にうれしかった。デビュー当時、「友達じゃねえんだ、拍手するな!」と客を怒鳴りつけたという伝説をもつ人が、18年経った今、わたしたちを友達だと言ってくれる。ここ数年のライブで、ミヤジがわたしたちを信頼してくれていると感じていたが、それは勘違いではなかったのだ。うれしい。ついてきてよかった。

 

いつも思うのだけれど、20年前の曲も、最新の曲も、全く違和感なく同居できるのは不思議だ。古くならないんだ。ファイティングマンも、デーデも。

もちろん、宮本が成長していないからではない。40歳の今は、創った当時と違う意味を盛っているものもある。他人のことを歌っていたのに、今は自分のことになっているとか。

 

夫も書いている「絶交の歌」を歌った後の宮本の感慨は恐い。若い日の自分が今の自分を見たら何と言うか。弾劾されないか。わたしたちから見た宮本は全然そんな、若き宮本に絶交されるような人間ではないのだが、要求水準が高いのだろうか。

「この俺は高きを見つめ」

「高みをのぞんでは敗れゆくのが、ぼくのクセらしい」

というのが宮本だから。

 

 「ガストロンジャー」と「祷ってゐた」とを続けてやったことで、「ガストロンジャー」が、あの危険なアジテーションソングが、実は祈りなのだと分かった。「破壊されるんだよ、だめなものは全部」「あいつらの化けの皮をはがしに出かけようぜ」、そして「もっと力強い生活をこの手に」。つまり、「くだらねえ世の中、くだらねえ俺たち」から、こんなんじゃない、あるべき世界へ、という祈りだ。

 ロックだなあ。

 わたしたちも、振り上げた拳を一夜のガス抜きにせずに、宮本の言うように「できうる限り、奮闘を続けて」いかなければ。

 

帰り道、十六夜の月が明るかった。

 

 

10月10日(火)

 双十節。

武昌起義勃発の日。つまり、辛亥革命勃発95年。

 あと5年で100周年か。なにか行事でもあるのだろうか。

 日常的に留学生会館や星台先生の寓の跡を歩いている。一応、留学生会館の前では先生(篤生)に、東新訳社辺りでは星台先生に話しかけているが、日常的すぎて慣れっこになってしまっている。

でも今日は、特別に力を込めて話した。今日は革命記念日なんですよ。革命は起ったんです。清朝は倒れ、民国が建ったんですよ。今日は双十節、辛亥革命勃発の日です。

 辛亥革命というんです。辛亥の歳なんです。と言うと、星台先生は「あと6年か」と。そして楊篤生は、確かに波立つ。

辛亥の年の陽暦10月10日。あと2ヵ月だった。あと2ヵ月辛抱できていたら、たちまち元気になって、章行厳と一緒にとんで帰っただろう。

 

その後の混乱と困難の日々のことは、今は措いておく。今の中国が、彼らの信じたような国になっているかどうかも。

ともかく、まずはおめでとうと。

 

 

10月11日(水)

 色川大吉の言う「地下水」の意味が、今になって解ったような気がする。

 

「人間は腐っても思想は腐らない」ということか。

 

 自由民権運動はどこへ行ってしまったのか。田舎の豪農の土蔵に集まって、ジャン・ジャックやミルをがんがん書き込みしながらみんなで読み、熱く論じあった若者たちはどこへ行ったのか。

 彼らの多くは、国権伸張を喜び日清日露に喝采するようになったのだろう。自由も平等も博愛も忘れて、小作人、使用人や家族の上に強権をふるうようにもなったかもしれない。

 でも、そんなことはどうでもいい。腐ったのは人間であって、啓蒙思想自体が腐ったわけではない。

 だから、彼らが一番きらきらしていた頃の作物や読んだものが文献として残っていれば、後から来る者がそれに触れることができる。腐る前の最も良質な輝く部分を吸収することができる。もちろんその中には、彼らの先輩を腐敗に向かわせた因子も含まれているかもしれない。けれどもそこは後から来たものの強みで、先人たちがどこでどう間違ったのか、どの地点からどっちへ行けばよかったのか、検証しながら進むことができる。先人が間違えた地点を越えて、さらに先へと。つまり、古い思想に新しい生命を吹き込み、強化発展させて蘇えらせることができる。

 

 滅んだかに見えた思想的な運動が、時間をおいて全く違うところから噴き出すことがある。それは一見無関係なようだが、つぶさに見ると確かに思想的につながっている。それを色川氏は「地下水」と呼んだのだ。

 

 二千年にわたり奴隷道徳として使われてきた儒教でも、『論語』さえ残っていれば、原初の力に立ち返ることができる。儒者たちがなんと言おうと、『論語』自体に語らせることで、春秋末期のラディカルな社会契約論としての姿を取り戻すことができる。

 

例えばプラトンを読んでいると、ジャン・ジャックがこれを吸収しながら、はるかに高い思想を編み上げたのがよくわかる。

ミシュレやクロポトキンを読むと、たとえその名に言及されずとも、彼らの中にジャン・ジャックが入って血肉化しているのがわかる。

 

もちろん、こんなふうにいうのは簡単だが、実際に行うのは大変だ。彼らのような聡明な魂を持ち合わせていないわたしには、できることではない。

それでも、この「地下水」の思想は、何か救いのような気がする。

 

 

●10月13日(金)

 楊コ鄰先生没後93年。

 この人の経歴は非常に興味深いのだけれど、はっきりしない部分が多い。

 ともかく、1913年10月13日、彼は銃殺された。この日、長沙は土砂降りの豪雨だった。

 行年四十四。

 

 御心経すら諳んじていない無智なわたしは、とりあえず馬鹿の一つ覚えの妙法蓮華経観世音菩薩普門品偈で追悼した。これを法事に使う宗派もあるというからいいかな、と。

「或遭王難苦、臨刑欲寿終、念彼観音力、刀尋段段壊」が痛かった。袁世凱は王じゃないし、斬首でなくて銃殺だし。と、言い訳にもならないことを。

 

 この人がいるから、立憲派が気になる。篤生は遺書で章行厳を謗って、「革命を忘れて梁卓如(啓超)と楊皙子(度)との間を徘徊し」と書き、それが民国初年の政争で使われて行厳を嘆かせたという。

 でも、まさにコ鄰が、その楊皙子と行動を共にしていたわけで、これは一体どういうことでしょうか。別にケンカした様子もなく、渡英する前も後もつきあいは続けていたようだし。政治と人情とは別ということ? コ鄰はコ鄰で、篤生の死後は「生を欲さず」革命に身を投じたというが、それではそれまでのことは何だったのか。

 また、民国になってからは黄興さんに重用されているが、これは単に古い友人だからではなく、立憲派にも顔が利くとくこと?

 

 なんだか分かりません。

 

 

10月16日(月)

 日中は汗だくになるが、朝晩は冷えるようになった。7日の野音では半袖でもそんなに寒くなかったが、昨今はそうはいかない。

 

 ということで、鴨が来る季節になった。

朝、市ヶ谷のお濠にキンクロハジロが来ているのを電車から見た。これはいけないと、昼に不忍池へ。

 

 池之端の交差点から入ったとっつきの植え込みで、先日見かけたこの池の住人と思しきおじさんが、リードをつけた仔猫をいとおしげに見下ろしていた。子猫は地面に身をこすりつけるように、くねくねしている。そこに観光客らしい白人の男女が通りかかり、男性のほうが子猫を写真に撮り始めた。

 それを尻目にわたしはボート池の方へまわる。オナガガモとキンクロとを確認。まだ数は多くない。なぜかカルガモが交じっている。ユリカモメはまだいない。

 時間がないので、すぐに回れ右して引き返す。さっきのおじさんは仔猫を胸に抱いていて、白人女性と何やら話し込んでいた。

 

 

或遭王難苦 臨刑欲寿終

念彼観音力 刀尋段段壊

と観音経の偈にある。「もしも王によって罪せられ、処刑されそうになっても、観音力を念じれば、刑吏の刀はたちまち砕けて、命が助かるであろう」

観音経がいつ成立したのか、わたしは知らない。元は独立したお経だったのが、人気があったために法華経に組み入れられたとも聞く。その法華経も一遍にできたのではなく、成立年代に幅があるようだから、素人には訳がわからない。わかるのは、観音経が古くから人気のあるお経だったということ、5世紀に鳩摩羅什によって漢訳されて(普門品偈は羅什訳ではないそうだけど)粟散辺土のこの国に伝わってからも、広く愛されたポピュラーなお経だということ。なにしろ平家物語にも当然の如く出てくるから、聞いた人が誰でもわかる周知のものだったわけだ。

上に掲げた一節は、さまざまな災難に見舞われても(悪人や盗賊に殺されそうになったり、海で嵐に遭い難破したり、毒蛇やさそりに襲われたり)、観世音菩薩を念じれば助かる、という部分だ。

だからたぶん古代インドにおいて、王難(王命による災難)は天災や犯罪被害と同じく、こちらに落ち度があろうとなかろうと関係なく、理不尽に降りかかってくるものだと思われていたのだ。

それはきっと中国や日本でも同じで、礼記に「苛政は虎よりも猛し」とあるように、自然災害以上に厄介な災難だったのだろう。

 

王のすることは正しいなんて、みんな思っちゃいない。諦めているだけだ。

 

 

10月20日(金)

 今日は休みだったので、急に思いたって都立中央図書館へ。よい図書館で、夫は時々仕事に使っている。わたしも好きだ。けれどもいかんせん遠いから、そうちょくちょくは使えない。

 

 いつも思うのだけれど、図書館は庶民の味方なのに、なぜ麻布なんかにあるんだろう。家からは地下鉄を乗り継いで1時間強かかるので、引っ越すときは図書館の近くに住みたいねと話しているが、いったい家賃はいくらかかるやら。

橋本龍太郎の死亡記事で、自宅が港区南麻布になっていた。まさに図書館の近く。住んでいるのはこういう人たちなのか。

ワンルームならどうにかなるかもしれないが、自称いなか者の夫は、ある程度の広さがないと住めないと言う。そんな無茶な。

実際には、せめて電車の便のよい所ということで、地下鉄に乗り入れている私鉄の、ずうっと先の方に住むことになるのだろうか。

 

 麻布の町を歩いていると、外国人ばかりが目につく。

 インターナショナルスクールか何かの子どもの団体と遭遇した。小学校低学年くらいか。椋鳥の如くかしましくさえずりながら狭い歩道いっぱいに来るので、手を出してよけながらガードレールぎりぎりをぬけていった。と、白人の男の子がすれ違う時に、わたしを蹴る真似をした。さすがにむっとして、民族差別的な言辞が頭に浮かんでしまった。ここは植民地か?! 白人の男女が引率者として前と後ろについていたが、ちゃんと見ててよ。

 道を走るのはやたらタクシーが多く、しかもどれも乱暴にとばしているので、おっかない。

 あまり住みたい町ではないかな。よろずお金のかかりそうな町だし。

 明治時代はこの辺は貧民窟やドヤ街だったはず。なんてことも思った。豪邸や偉そうなマンションや大使館に交じって、むかーしからありそうな、あまりお金持ちでなさそうな民家もあって、税金やなんか高くて大変だろうな、なんて。

 

 久しぶりの図書館で、朝日新聞の縮刷版を調べる。05年11月には、新しいものは見つからなかった。06年1月分では数件発見。夫が家で寝ているので1時間で切り上げ、コピーしてもらって帰る。1月15日までしか見られなかったが、たぶんこれで取締規則事件関連記事は終わりだろう。念のため、もう一度足を運んで1月いっぱいは見たいと思うが。

 

 明治の新聞はおもしろい。どうしても関係ない記事にも目がいってしまい、時間を無駄にくっている。もっとゆっくりやりたいけどしかたない。また今度ね。

 

 

 

 午前中、久しぶりに公園へ。雑木林で樹木の気を浴びていたら、蚊の攻撃を受けた。秋の蚊はたちが悪い。

 近くの家の庭に、ホトトギスがたくさん咲いていた。小さいころ、わたしはこの花が恐かった。名の由来になっている点々が気持ち悪かったのだろうか。今見るときれいな花なのに。我がことながら思議だ。

 

 

 こんな記事を見つけた。

『東京朝日新聞』1905年(明治38)十一月十八日

●清国政府の断髪実行

 北京警務署は天清警察署所属の憲兵の服制を洋服に改めたるのみならず同時に断髪を実行せしめたるが尚清国政府より行政研究の為め海外に派遣せらるべき委員は孰も洋装断髪を為す事に定められたり

 

 

「天清」は「てんしん」とルビがある。この時代の新聞は基本的に総ルビで、今と違う読み方もあったりしておもしろい。組織が「そしょく」だったり。

 

留学生取締規則事件と無関係のこの記事が目に留まったのは、楊篤生の頭が気になっていたから。

彼は辛丑(01年)冬に七言絶句三章を儷鴻夫人への置きみやげにして長沙を離れ、上海を経て翌02年に東京へ。彼のことだから、着いてすぐに髪を切ったのではないかな。鬱屈した失意の変法家から最も過激な革命家に転じたのが、いつのことか分からぬが、そういつまでも弁髪をぶら下げているような人ではあるまい。

問題はその後だ。天津や上海で怪しい活動をしていたときは、ニセ弁髪でもぶら下げていなければ、具合が悪かったかも知れない。そして華興会が崩壊した後、彼は北京で京師大学堂(現・北京大学)の訳学館の教員になっている。これは張百熙の口利きによるもの。張は管学大臣(文部大臣兼京師大学堂=北京大学の校長)で、要するに政府高官。八カ国連合軍により廃校同然になっていた京師大学堂の復興を任せられていた人物。この人が「彼は留学帰りだから」と言えば、断髪でも通りそうな気がするがどうだろう。

少なくとも、06年に載澤幕下の随員として来日した際には、断髪していたと思われます。

 

なんてね、単に弁髪姿の楊篤生が思い浮かべられないだけなのだけど。

 

 

10月31日(火)

日曜日の昼過ぎ、電車で男の子が二人、声高に話していた。といっても話しているのは一人だけで、相手はたまに相づちを打つだけだった。二人とも詰襟の学生服で、高校生かと思ったが、それにしては少々董が立っているようだから、あるいは雄弁部か何かの大学生なのかもしれない。

本を読んでいたわたしの耳にまず飛び込んできたのは、「村山首相の言ったことで一番ひどいのは」ということば。ちょうど駅に着いたところでざわざわしたため、肝腎の内容は残念ながら聞こえなかった。続いて聞こえたのは、「まったく、なんであんなのを首相にしたのか、当時の有権者に訊いてみたいくらいだよ」と。連れの子が何か言うと、「いや、僕は消費税は上げていいと思っているけどね」

さらに、相手が何も言わないのに、「だったらおまえがやれって? でも、本当に政治をやりたい奴は政治家になれないんだよな。なれるのは根回しとかそういうのがうまい奴で、本当に政治をやりたい奴は政治家にはなれないんだ」と。

そこでわたしは電車を下りてしまった。

 

僕に訊いてみたかったな。政治ってなあに? 政治の目的は何ですか?

政治の目的は、論語に明確に書いてある。高弟の子路の「君子とは何ですか」という問いに対する、孔子の答えがそれだと思う。すなわち、すべての人を幸せにすること。孔子は、それがどんなに難しいことかを説いている。聖人ですら心を砕いたことだと。

本当にね。すべての人が幸福になれればどんなにいいか。

問題は、あくまでそれを目標、否、目的とするか、あるいは不可能だからと投げうって居直るか。妥協案として「最大多数の最大幸福を目指す」というのがあるけれど、それは同時に「最少数の最小不幸」を前提にしないと、そら恐ろしい世界ができあがる。と、二十数年前にとある田舎の高校生が喝破して、教師たちを驚かせたとか。

 

電車で会った僕、間違っても、最大多数の最大不幸を前提とした最少数の最大幸福、だけは目指さないでね。

 

そしてもう一つ、ジャン・ジャックは読んでるね? 『社会契約論』だけでいいからね。

 

 

 

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