千歳村から 〜日記のようなもの      

 

 5日 8日 20日 26日

 

●4月1日(土)

 例年どおりの電車花見、散歩花見。市ヶ谷辺りのお濠もすばらしいが、自宅ベランダから見る隣の団地の桜もみごとだ。 

 

昨日の報道によれば、重慶爆撃の被害者の方々が日本政府を相手に訴訟を起こされたそうだ。準備を進めているという話は知っていたので、ああやっと、と思った。

裁判のかたちとして賠償金を求めてはいるが、日本人に知ってもらうのが目的だとか。

 

非戦闘員を狙った無差別爆撃は明らかに国際法に反している。彼らの訴えは正当だと思うけれど、裁判所はなんやかやと理屈つけて賠償金は認めないのだろうな。あとはどこまで「お気の毒」と言ってくれるか、そこに裁判所の「良心」を見たい。

 

先月、ひょんなことから意欲をかきたてられ、少々動き始めた。マイクロでなければ見られないと思っていた明治期の東京朝日新聞が、夫の行きつけ(?)の図書館に縮刷版であるのを発見。とりあえず1905年12月の分だけ端から端までながめて、例の規則の関連記事を全てコピーしてきた。

色々と考えさせられたが、それと無関係にいくつか発見もあった。新聞て、おもしろいわ。

 

 

4月5日(水)

宋遯初君生誕124周年。

彼がこの世に在った時間は星台先生よりも長いのに、どうしても若い気がして「君」呼ばわりしてしまうのは、偏に日記のせいだ。実際あれはかわいすぎる。

 

 今日は清明節。

 

 

4月8日(土)

 ありがたいことに、一昨日友人が、上海の宋遯初君の墓所の写真を送ってくれた。見ていたら涙ぐんでしまった。でも本当は彼は桃源に帰りたいのではないだろうか。

 

 マグノリア類は終わりが悲しい。西神田のサラサモクレン、遠目で見てまだきれいだと思ったが、近寄ってがっかりした。

 それもそろそろ散って、今週は山吹が咲きそろい、近所の公園ではシャガが1本だけ花をつけている。

 今日は灌仏会なのだけれど、これは陰暦で祝うべきか。もっとも、四月八日というのは中国の仏徒が決めたのだと、何かで読んだ覚えがある。インドの人たちはたいへん高度なものをうみだすけれど、年月日の記録には弱いらしく(劣っているというのではなく、そもそも関心が薄い)、釈尊の誕生日はおろか生まれた年すら、説によって100年からの誤差がある。記録魔の中国人からすればとんでもないことだ。釈尊より早い孔子だって、生没年どころか亡くなった日まで特定できる。

で、釈尊の誕生日が分からないと困るということで、誰かが決めたのだとか。何らかの根拠はあったのかもしれないけれど、よく知らない。ただ、四月八日というのは好い季節だというのも、考慮されたらしい。

陰暦でも陽暦でもいいや。花いっぱいの好い季節であるのはかわりない。

 

ただ、終わったと思った花粉症がぶり返したのは困ったことだ。「ヒノキだよ。これで君も一段、格が上がったね」と、自身数年前に杉からヒノキに移行した夫は言う。

そんなのうれしくないが、夫は杉にはほとんど反応しなくなっているから、それならそれもいいかな。

 

 カスタネッツの元ちゃんが一昨日カラオケで歌いまくった曲目の、いの一番に「四月の風」とあった! 薄々思っていたけれど、やはりこの人もエレカシファンか。好きな人と好悪をともにできるのは、何よりの喜びだ。

 

 

4月20日(木)

今朝、市ヶ谷辺のお濠に鴨がいなかった。昨日までは十羽ほどのキンクロが浮かんで、くりんと、くりんと、潜っていたのに、今日は鵜が一羽、潜望鏡みたいに首を突き出しているだけだ。

で、昼に豪雨を衝いて不忍池に行ってみた(果敢といいたいところだが、実際は歩き始めはちょぼちょぼ降りで、次第に激しくなり、遂には横なぐりの豪雨になったもの。少なからず後悔したけれど、引き返すのも癪なところまで来ていたので強行しただけだ。ビルの軒下に逃れて信号を待っていたら、初老の紳士が傘にすがって「わあー」とわめきながら走り過ぎていった。台風並みの騒ぎだった)。

手前の蓮池にはマガモしか見えず、やはり帰ってしまったのかと思いながら行くと、ボート池にはまだいた。オナガガモは皆無で、キンクロのみ。数もだいぶ減っている。ユリカモメもまだ残っていたが、この人たちは頭が黒くなり始めていた。真っ黒になっているものもいた。夏羽のユリカモメを見るのは初めてだと思う。

 

ずぶぬれになって帰り着いたら、とたんに照りだし、あっという間にぴかぴか晴れ。天神様に戯れられたか?

 

 

4月26日(水)

市ヶ谷のお濠には、まだキンクロハジロがまだいる。青々と茂った桜樹の前で、くりんとくりんと潜っている。西神田の星台先生故居あたりの小公園で、石楠花が咲いている。鶏頭みたいな強い赤。

 

1905年(明治38年)の『東京朝日新聞』に、「支那学生問題に就て」と題して繰り返し投書している青柳篤恒なる人物は何者か。かなり早い段階(七月)から筆を執っているから、ただものではなかろう。そこで調べてみたところ、明治末年刊の人名事典に出ていた。明治九年東京生まれで、東京専門学校を卒えて早稲田大学と東京高等師範で教えているというから、要するに早稲田の人だ。別の資料には、中国学者で後に袁世凱の顧問を務めたとある。驚いたのは年齢だ。明治九年(別の資料では十年)なら1876年。陳星台より若い、三十歳にもならない若造だ。「ホザイたり」などと乱暴な言辞を弄するのもうなずける。早稲田だから、清国留学生部で浮田和民や高田早苗とともに反動的な教育をしていたのだろうか。それなら楊篤生も教わっているかもしれない。彼よりはずいぶん若い先生だけれども。

よくも悪くも熱っぽい文章で、大真面目で潔癖。そういう意味で悪い人ではなさそうだが、思想的には革命人士とは相容れないだろう。

 

篤生はこのときどこにいたのか。「遣外大臣寄港 清国遣外大臣端方氏を始め五十二名の一行はサイベリア号にて渡米の途次昨廿五日午前十時横浜に寄港し同国公使、参賛官、領事并に長岡東亜同文会副会長、根津同幹事は本船に訪問したり微行にて上陸すべしとの事なりしが疲労と称して尚船中にありき」なる記事(12月26日付)があるが。

 

 

 

 

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