千歳村から 〜日記のようなもの      

1月4日(水)

一月四日晴 巳正、程潤生の寓へ行く。潤生が言うには、留学生界が日本文部省の規則に反対する件について、明後日、各新聞記者を招集し、酒食で饗応して意見の疏通をはかることになったと。(中略)午正に帰る。

李和生の寓へ行き、和生、楊勉卿とともに熊岳卿の寓へ行く。しばらく話すうち、岳卿が酒を出してくれたのでこれを飲んだ。余ははなはだ酔い、しばらく席上に横になって、天を仰いで陳星台の『猛回頭』の曲を歌った。一時に百感が交集し、歌い止むと覚えず凄然と涙が流れ、声を失った。(後略)

 

「一家に一冊『宋教仁日記』、一家に一枚『頭脳警察1』」という格言にもある(?)名著、宋教仁の日記。陳星台ファンとしては1906年1月4日のこの条が最も好きだ。

 

年末、神保町で松本氏訳の『宋教仁の日記』を発見。1万円也。へ? と思って定価を見ると18000円。わたしはこれを発売直後に買ったはずだ。大学生協の特別フェアか何かで何割引かだったとは思うが、それにしてもこんな高い本を即座に買ったところを見ると、当時からだいぶ彼にはやられていたらしい。

卒論書く時に苦労したから。そのとき訳本が出ていたらどんなに楽だったか、という思いもあったのだろう。

 

今年は完璧な寝正月。1日は郵便受けまで行っただけ。2日はそれすらせず、家から一歩も出なかった。ひたすら眠りこける日々。3日は朝7時半に出て明神様へお詣りに行ったが、午後はやはり眠り虫。

年末も熱出したりして暮れ仕事を途中放棄して寝ていたし。

今日はさすがに起き出して、近所を小一時間歩いてきたけれど、こんな具合で明日から社会復帰できるのだろうか。

 

 まあ、よし。寝られるうちは寝ておきましょう。

 

 

1月10日(火)

今年の初ライブはエレファントカシマシ。ZeppTokyo。

一昨日だったのに、まだ腕が痛い。今回はあまりがんがんやらなかったはずなのにとこぼすと、夫は「どこが」と冷たい目。その夫は声が完全に割れていて、悪魔憑きごっこをして遊んでいる。

いいライブだった。キャパ三千近いZeppが満員になり、熱いのに荒れない。宮本は相変わらず意味不明の発言が多かったけれど、それもよい。「武蔵野」のときに東京の地名を列挙して、神田上水、井の頭、がうれしかったが、大半は山手線の内側だったような。彼は本当に東京が好きで、東京のライブのときはファンに甘えているような気がする。東京人の妄想かもしれないけれど、うれしい。

もっとも、彼の愛する東京は、どちらかというと荷風が歩いていた頃の東京市なのかもしれないが。

今回思ったのは客層の変化。ここ数年、フェスの類にまめに出てきた効果か、若い男の子が増えた。その人たちは少々異質な感じで、開始直後は騒いだりちゃちゃを入れたりする風があって、宮本も嫌がっていたのではないかと思うのだが、じきにおとなしくなった。

エレカシのライブというのは、拳が林立して怒号が飛び交う熱いものだが、けっして暴れるためのBGMではなく、あくまで音楽を聴くためのものなのだ。ぼくたちも、すぐにそれが分かったのだろう。

 

二十年ほど前、夫がPANTAのライブに行っていたとき、若い者は前で暴れ、おじさんやおばさんたちが後ろに座って静かに聴いていたとか。

エレカシもこれからそういうふうになっていくのだろう。かっこいいアニキだと思って見ている若い人たちと、メンバーと同世代の人たちとの二層化。

前者はそのうち自分たちの世代の音楽を見つけて去っていく。夫がPANTAから去ってエレカシを見つけたように。そうやって次々と入ってきては去っていく、十代、二十代の人たち。

そして我ら同世代の人間は、みんなで一緒に歳をとっていくんだ。宮本もあと半年で四十になる。まだまだ十年でも二十年でも続けるだろう。清志郎だってがんばっているもの。

 

 

 

 久々の大雪。昨夜の予報では、昼前から夜中まで断続的に降り、量は大したことないということだった。それを聞いて夫に、「絶対に予報は外れる。朝から降るか、ほとんど降らないか、どちらかだ」と言ったのだが、やはり言挙げするとそのとおりになるのか。

 

 今日は歯医者。雪の中をでかけたら、街には存外、人がいっぱいいた。歯医者でちょっと痛い思いをしたけれど、趙声は麻酔なしで盲腸の手術を受けたのだからと、意味不明なことを思って我慢した。

 趙声は結局この手術で死んでしまった。それが、楊篤生が死んでしまったり、黄興さんが死にたくなってしまったことにも、つながっているらしい。

 

 積雪は都心で18時現在8センチとのことだが、わたしが11時半に計ったときには既に9センチあった。やはり千歳村は東京都は違うのか。気温も大手町より2、3度は低いようだし。

 このくらいの雪で騒ぐのは、雪国の人からすればちゃんちゃらおかしいのだろう。でも東京しか知らないわたしには、やはり心が蕩くできごとだ。

 

 畏友K氏は元気かなあ。彼の地では真冬日も珍しくなさそうだけれど。

 

 

●1月23日(月)

 今朝は青い空に真白な富士がくっきりかっきり。その手前の蒼い山並みも鮮やかで、山肌まで見えそうな気がした。

 先週ほころび始めた蝋梅はこの雪でどうなったかと思ったが、元気に芳香を放ってくれていた。

 

一昨日の新聞記事にあった「テロリスト」の五文字が気に触って気分が悪かったので、昨日、大仏次郎の「詩人」を読んだ。ロープシン(サヴィンコフ)は読んだが、こちらは何だか億劫で放置してあったため、これが初読。

存外みじかい作品だったけれど、しんどかった。途中から涙がとまらなくなり、読み終えて後もしばらく壊れていた。これはきつい。

 

アレクサンドル二世爆殺事件のとき、従者たちが怯えて逃げ去るなか、飛び出してきて瀕死の皇帝を介抱したのは、待機していたテロリストたちだった。捕まれば死刑確実だし、何より皇帝を殺したのは自分たち自身であるのに。

これは、彼らが殺そうとしたのは制度としての皇帝であって、アレクサンドル・ニコラーエビッチという個人ではないから……というようなことを以前書いたと思うが、本当はそんなことでもないのだ。そんなことを考えている暇はない。ただ、目の前に傷ついて苦しんでいる人がいたから、放っておけなかっただけだ。

それは彼らが人間だから。殺人狂でも非道人でも爆弾マニアでもない、善良な情深い人間だからだ。

 

ずっと前から疑問だったのだけれど、ショッカーをはじめとする「悪の組織」は、地球なり宇宙なり札幌市白石区なりを征服し手中に収めた後、どういう世界を作るつもりだったのだろう。どういう制度を作り、どんな政治を執るつもりなのか。頭目だけがにっこにこの世界、と思っても、それだけの領域を支配するのはひとりでは厳しいでしょう。どうするの?

 

言うまでもなく、革命というのは、今ある世界は間違っているとして、よりよい、よりまっとうな世界を作ることだ。それが抵抗なく進めばよいが、たいていは弾圧される。戊戌の政変のように。それでやむなく武器を手にすることになるのだ。

だから彼らは本来、チャイコフスキーやクロポトキンの言うごとく、極めて道徳的な人たちだ。不正を憎んで看過できず、善を強く志向する人たちだ。にもかかわらず、人を殺したり傷つけたりせねばならないとしたら。

そしてまた、彼らには築くべきすばらしい世界があり、そのために活動しているのだが、テロリスト本人はその世界に住むことはできないのだ。

 

なんともやりきれない。「われは知る、テロリストの/かなしき、かなしき心を」なんて啄木を口ずさむ資格はわたしにはないけれど、でも、テロリストがただの粗暴犯でもなければ訳の分からぬ虫みたいな異生物でもないことくらいは分かる。

新聞記者さん、大仏の爪のあかでも飲んでください。

 

  とはいえ、無差別テロは理解不能。これはナロードニキのみなさんも同じだろう。

 

 

1月30日(月)

昨日は陰暦一月一日ということで、陰暦のカレンダーをかけかえた。数年前に中国書店で中国のカレンダーをもらってから陰暦の便利さに目覚め、お月様の満ち欠けの絵のついたカレンダーを併用している。月の有無(おおよその出没時刻)がすぐ分かる陰暦や、誕生日を気にせずに年齢計算のできる数え歳など、便利なものをなぜ簡単に手放してしまったのだろう。

 

何でもいいや。陽暦と陰暦と両方の正月と、ついでといっては何だが立春と、年の初めのめでたい日を三つともお祝いしよう。めでたいことは多いほうがいい。

四月八日も両方でお祝いしているし。

 

 

 

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