千歳村から 〜日記のようなもの      

 

12月1日(木)

今日は陰暦十月三十日なので、楊篤生先生生誕133年のお誕生月間は本日まで。

日頃、旧神田区駿河台鈴木町十八番地の清国留学生会館の前を通るときに、彼のことを思っているけれど、別に彼がここに住んでいたわけではない。『游学訳編』の発行所がここの住所になっていただけ。おそらく名目上で、実際は同人の誰かの寓で作っていたのだろう。

彼はどこに住んでいたのか。早稲田だから神田ではないかもしれない。あるいは昌済先生と一緒に住んでいたかも。達化斎日記を見ることができれば、何かわかると思うのだけど。

絶対、頻出しているはず。あの二人の仲はただごとではない。遯初君と李和生君のような、というと語弊があるかな。

 

あと一週間で12月8日。星台先生踏海百周年。

ふた月前に朝日新聞に手紙を出してみたけれど、どうせ黙殺されるのだろう。

 

 

12月6日(火)

百年前の今日、陳星台は宮崎寅蔵を晩餐に招いた。そのときのことを宮崎が書いている。わたしの大好きな文章なので、とびとびにだが引用する。「亡友録」の「陳天華君」の項。初出は『上海日日新聞』(1919〜1920)で、『宮崎滔天全集』第二巻(平凡社、1971年)より。

 

宮崎は程家檉の紹介で星台と知りあった。「爾来私は屡々相逢ふて酒飲み交わす機会を得たのであるが、彼が寡言なのと、言語不通の為めに、ツヒ談話の交換をせず、乾杯々々の間に万事を了解して、そのままに永久の別れとなって了つたのである。」

孫竹丹からもらった紹興酒をたまたま訪れた星台と酌み交わし、「其後数日を経て、陳君から晩餐のご案内があつて、私はその招宴に列し、彼が秘蔵の螺(さざえ)の殻の杯で以て乾杯の競争をやり、前後も知らぬほどに泥酔したのであつた。此時も「乾杯」以外に一語を交へなかつたことは言ふまでもない。而も是が最後の訣別の杯にならうとは、陳君自身は知るや知らずや、神ならぬ私には、迚も知る由がなかつた。彼はそれより二日の後に大森の海に投じたのであつた。」

「彼は蛮骨稜々で眼光に力あり、一見してきかぬ気の人である事が分る。併し彼と相対して飲んで居れば、謙遜優美の徳が溢るゝばかりで、何時ともなく、慕わしく恋しく、而して忘れ難い感情を惹起されるのであつた。」

「彼は手腕の人ではなかつた。秘密結社の如き窮屈なる団体の中にあつて、陰謀を廻らすような事は彼の性格として、不適合であつた。然り、彼は何処までも予言者の風骨を備へたる宣伝者であり、高尚優美なる心情を有せる文士的先駆者であつた。」

 

 

●12月7日(水)

 「清国人同盟休校   東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ」

 『東京朝日新聞』1905年12月7日

(さねとうけいしゅう『日中非友好の歴史』朝日新聞社1973年より孫引き。文中の強調はゆり子による)

 

彼がここで過ごしたのは今日までなのだと思い、東新訳社のあった一角をぐるぐる歩いた。彼は今日は終日ここで書きものをし、明朝には発ってしまう。

西小川町1−1だったこの一角のうちの、どこなのかが分からない。それがもどかしい。コンビニエンスストアになっている角は幼稚園だったようだから、その脇か裏か。裏の公園には千代田区の案内板が立っているが、かつてこの町内に西周邸があって鴎外が一時寄宿していたとしか書いていない。留学生会館の跡にも何もないのだから、望むべくもないか。

とりあえず公園で普門品偈を唱える。無教養ゆえこれしか諳んじていないからだが、彼は『猛回頭』で金光游戯観音を名のっているし、お祖母さんやお父さんのあり方が観音の門弟的なので、毎年これをあげさせてもらっている。お念仏はお好きかどうか分からないし。そうでなくとも、鬼神は異族の祀りは受けないというし。だから気持ちだけ。

 

口の中でぶつぶつ唱えながら、まさに今!「絶命書」を書いているのかもしれない、と思ったら泣けてきた。

公園内のそこここで学生諸君、労働者諸君がお昼をとっている。多少冷えて風があるが、天気がよくてなごやかだ。

でも百年前の今日は雨降りで、きっと薄暗い部屋の中で筆を執って、「絶命書」と、あのやさしい宝卿公の伝記とを、刻み込むように書いていたのだ。

 

 

●12月8日(木)

12月8日。陳星台先生踏海百周年。

 だからといって何があるわけでもなし。

いつものように昼に東新訳社へ行った。彼はここにこんな時刻まではいなかったはずだが、大森まで行くことはできないからしかたない。

ばかのひとつ覚えの普門品偈を口の中でもごもごと。さらに、『猛回頭』の「大地沈淪幾百秋……」もつぶやいてみたけれど、如何せんこれは無粋にすぎる。

今日、彼のためにここに立つのは、わたしだけなのだろうか。大森かどこかで集会でもないのだろうか。記念碑の話はどうなったのだろう。新化か長沙では何かやっていないだろうか。

なんだか、その辺を歩いている学生だのおじさんだのを捕まえて、「ここに住んでいた人が、百年前の今日、海に入ったんですよ!」と、まくしたてたくなった。

昨日に続いて天気がよいが、あの日は曇天だった。そうでなくともかつての日本は(地球は)もっと寒かったから、遠浅の海に入るのは厳しかっただろう。

 

今夜、大森警察から公使館、留学生会館を経て東新訳社に連絡が入る。そしてさらに宋遯初君に報せが行って、明日未明に遯初君たちが大森まで迎えに行ってくれるのだ。

 

 

●12月9日(金)

旧神田区駿河台鈴木町十八番地。今はとんでもなく巨大な池坊の校舎が建っていて、かつてここにあった二階屋の清国留学生会館を思い浮かべることは難しい。

 百年前、ここに星台先生の「絶命書」が貼りだされ、通りを数百人の留学生が埋め尽くした。ひとりが読み上げると、一同滂沱の涙。きっとたいへんな騒ぎだったのだろう。

 

 毎日通る道だけど。

 

 

12月16日(金)

昨日のこと。

 天気は上々散歩にと、湯島神社を経て不忍池へ。ここのカモは餌付け慣れのためにドバトならぬドガモと化していて、人の足元を平気で歩いている。

オナガガモのおばさんだかお嬢さんだかが寄ってきて、公園猫と同じ目でわたしを見上げる。ごめんね、何もないのよ。野生のものを堕落させて全能感にひたる気はないのでね。

 と、かっぱえびせんの袋を持ったおじさんがやってきて、小声で「おいで」と言うと、あっという間にたくさんのオナガガモと数羽のユリカモメが群がってきた。

 見ていると、カモは皆、おじさんの手から直接うけとっているが、ユリカモメはおじさんにあまり近づかず、専らカモの口から奪おうとしている。オナガのほうが一回り大きいためか全然成功しないのだが、それでもおじさんから直接もらおうとするものは一羽もいない。

 池の向こうで、やはりおじさんが何かやっているが、そちらは池に向かって撒いていて、水面にも上空にもユリカモメがわんさと群がっている。だから餌付け自体を拒んでいるわけではないのだろう。

 ユリカモメの空中戦を見るのはおもしろい。大きなパンの耳をくわえた一羽を数羽が追いまわす。あるいは一対一で追っかける。ほとんど羽ばたかず、天から吊るされたような感じで、縦横に翻り翻る。ふっと速度を緩めたかと思うと、またスピードを上げる。そうやって二羽でもつれあって飛ぶうちに、不意に一羽が逸れてあっちへ行ってしまう。捨て台詞の一つもなく、何事もなかったかのようにすいーっと。

 それが自然というものなのだろう。無駄なことをしている暇はない。だめだと思ったら、さっさとほかへ行くほうが利口というものだ。なんだか『平家物語』の寺門や南都の悪僧のようだ。さんざん暴れてひとしきり戦い、ここまでと思ったら、さっさと落ちていく。そのありかたは、なんだかとても好ましく思える。死に急ぐばかりが能じゃない。

 

 ところで、にゃんこおばさんに鴨おじさんで、その逆、つまり鴨に餌付けするおばさん、猫に餌を運ぶおじさんは、あまり見ないような気がする。なぜでしょうね。

 

 

12月27日(火)

 風邪ひいた。今日から休みなのに。一昨日、空気の悪い人込みに3時間もいたのがいけなかった。

 でも楽しかった。カスタネッツのライヴ。年越しのイベントには行かないので、本年最後になる。今年はエレカシの活動が少なかった分、カスタのライヴにはマメに参加した。5月、7月の後、9、10、11、12月と、怒濤の月一回! 全部下北沢ClubQue。ここはいいのだけれど、空調が悪くて、服も持ち物も全部たばこ臭くなってしまう。あんな狭い所でたばこ吸って、火事でも出したら大惨事だが、いいのか?

 それはともかく、ライヴ自体は最高だった。元ちゃんに変化の兆しを見た。これはいい傾向だと思う。デビュー10周年ということ(公式HPのBBSにファンが書き込むまでメンバーすら気づかなかったという間抜けな話だが)で、「早熟の天才とか言われて十代で彗星の如くデビューしてからもう10年か」と、意味不明の発言をする牧野元38歳。ギター小僧だったコミや若ちゃんと違い、元ちゃんは大学に入ってたまたま軽音のサークルに入ったのが、音楽を始めたきっかけというから、普通より遅いのじゃないだろうか。そこで世の中にはコードというものが存在すると知って、初めて創った曲が「だいじょうぶ」だというのだから、どうかしている。確かにわたしですら弾ける単純な曲だが、文句なしの名曲だぞ。

 話が逸れたが、「Through」で始まり、本編締めくくりは「青と白の日々」で泣かせてくれる、よいライヴだった。

 さすがにちょっと足りた気がするので、1月、2月のは見送ろうと思う。1月のイベントは元ちゃん初のソロということで、興味はあるが、渋谷は嫌いだし、体力的にもきつい。

 

 来年は8日のZeppTokyo、久々のエレファントカシマシからだ。あの壮絶な雨の野音から半年ぶり。既に戦闘態勢で、拳を握って待っています。

 

 

 

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