千歳村から 〜日記のようなもの      

 

11月2日(水)

楊篤生先生生誕133年。

 残念ながら正確な誕生日がわからないので、陰暦十月をまるまるお誕生月間とする。すなわち今日から12月1日まで。なお、陽暦だと11月1日から30日までになる。同治壬申十月初一日はちょうど1872年11月1日にあたるから。

 どっちでもいいのだけれど、陰暦のほうがなんとなく好きなのでこっちでいく。

 

 あまり幸福な生を送った人ではない。いちばん輝いていたのは、数えで二十六、七の頃かもしれない。あの輝かしい湖南変法運動。あのときはみんな、きらきらしていた。

あとは『新湖南』を書いていた頃か。

 

 本人の自己認識はどうであれ、実戦向きの人ではないように思う。渡英の話に迷っていた彼に相談され、我が国の学問の向上のためにと背中を押した于右任は正しかったと思う。

 

 

11月3日(木)

「譚瀏陽先生は、『仁学』を読むには華厳経に通暁していなければいけないと言っている」と夫に言うと、夫は呆れて「譚瀏陽は幾つで死んだんだ」と。「数えで三十四」と答えると、「華厳経が何巻あると思ってるんだ。目を通すだけで何十年もかかるって言うぞ。譚瀏陽はどういう読み方したんだ」と。

 

 なるほど華厳経というのは、訳によって違うが、三種類の漢訳がそれぞれ六十巻、八十巻、四十巻ある、途方もなく膨大なお経だそうだ。

 

 生き急いだ彼が一体どんな読み方をしたのか、彼の思想の中に華厳思想がどういう形で生かされているのか、華厳の概説書をざっと読んだだけのわたしには到底わからない。

 

 華厳思想に興味はあるが、わたしの頭ではおっつかないだろう。それでもせめて、善財童子の入法界品だけでも読みたいとは思っている。智の文殊さま、慈の弥勒さま、そして悲の普賢さま。お三方の導きと助けとを、わたしは切望しているから(慈悲の慈と悲との違いがよくわからなかったのだけれども、今のところ、楽を与えるのが慈、苦を取り去るのが悲と理解している。はなはだ皮相的で、どの程度妥当かわからぬが)。

 

 義によって死んだヒーローである譚嗣同は、華厳に何を見たのだろう。

 

 

11月7日(月)

 朝、すばらしくくっきりとした富士を見た。市ヶ谷のお濠に、鴨がだいぶ来ている。暑がりのわたしにはいい季節になってきた。

 

先日、新宿駅の中央線のホームで、電車が着いて降りてきた人たちがどどどっと階段に向かい、また駆け込み乗車しようとする人たちが血相変えて階段を駆け上ってくる。そういうときに、その階段の一番上、降り口の真ん中に突っ立って、一心にメールを打っている男がいた。

 脇をすり抜けて階段を降りながら、ああいう人は蹴落としてもいいのではないかと思った。邪魔だし危ないし、了見が知れない。人間の頭を持っているとは思えない。

 けれども後で考えた。こういうとき、「危ないですよ」と、やわらかな穏やかな口調で言えたら、かっこいいだろう。苛立ちを抑えるのではなく、はなから平静な気持ちのままで、ふわっと言えるようなら、相手もそれで気づくだろう。禽獣の類ときめつけては、気持ちを荒げるだけだ。

 それにはこちらが柔らかで穏やかな心でなければいけないので、こんなに常に苛々じりじりしているようではだめだ。

 ジャン・ジャックが『エミール』で、怒りは病気だという意味のことを言っていたと思う。彼自身は全然円満な人ではない。エミールは、こう育てられたかったジャン・ジャック像なのだろう。

 

 私鉄の急行電車で高校生の女の子が二人で三人分占領していて、その前におばあさんが立っていた。「あなたたち、ちょっとつめて差し上げて」ということばを頭の中でぐるぐる回していながら、結局いいだせぬまま、次の駅で離れた席が空き、おばあさんはかけることができた。やっぱり座りたかったのかと思い、二人のうち一方は半ば気にしながら友達の手前動けないでいる風だったから、わたしが声をかければ聞いただろうと思い、後味が悪かった。こういうときにためらいなくすっと言い出せれば、それは立派なおせっかいおばさんで、そういうおせっかいはよいことだと思うけれど、わたしはまだまだだ。

 

 

11月8日(火)

初めて仏典を読んだのは、十九か二十歳のころだ。そのころ、「身の毛のよだつほど嫌いな人と穏便につきあうにはどうしたらよいか」という問題を抱えていて、その答えを原始仏典に求めたのだ。なぜ原始仏典だったのか。おそらく高校のとき倫社の副教材で見た般若心経の現代語訳が、全く理解不能ながらかっこよく見えたこと、宗教には抵抗あるが、原始仏教は宗教というよりは哲学だと、どこかで聞きかじっていたらしいこと、そんなところが心に引っかかっていたのだろう。

そして中村元先生の訳で『スッタニパータ』から読み始めた。結果、見事に誤読した。

「好きと嫌いと身の毛のよだつのとは自身より生じる」

なるほどと思い、なぜ彼が嫌いなのか自分の心を分析しようとした。そうすることで、「嫌い」という気持ちに理由がないことを解明し、解きほぐして溶かし去ってしまおうと思った。

もちろんそんなことができるわけもなく、単に自分の気持ちを抑圧するだけになり、かえって恨みは倍増した。

いま思えば、彼は性格に若干の癖があるものの、悪い人ではなかった。むしろ基本的に善意の人で、およそ悪意に基づいて行動する人ではなかった。ただ、その善意が多分に彼にしか通用せぬもので、しかも強引で押しつけがましいきらいがあった。そんなことが、小生意気な子どもだったわたしには、正義をかざして反論を封殺するように思えて、許せなかったのだろう。、なにより生理的に嫌いだなどと、失礼なことを口走ってもいたが、それはわたしが子どもだった証拠だ。

それはともかく、結局のところその件に関しては何の実効もないままにすんでしまった。

 

それでも仏教に関する関心は、心の隅に残っていた。夫と出会ったその日に、「釈尊は、くだらん人間とつきあわずに犀の角のようにただ一人歩めと言いながら、どうして説法を始めてしまったんでしょうね」などととんでもない疑問を投げかけてしまったのを憶えている。

とはいえ当時のわたしの頭にあったのは原始仏教だけだった。原始仏教は哲学だが大乗仏教は宗教で、それは仏教の堕落であるだなどと、ひどい思いこみをしていた。言うまでもなく、本気で祈ったことのない、甘やかされて恐いもの知らずの傲慢な子どもの、思い上がったたわごとだった。

 

 

11月9日(水)

 先月末だったか、神保町の某書店で、さねとうけいしゅう『中国人日本留学史』を見つけた。遠目で見てぎょっとし、同時に帯に書かれた文字を目にして凍りつく。二万円。

 レジの後ろだから手にとるには断らねばならないし、手にとったところで買えるわけもない。

 見なかったことにして、回れ右して帰った。

 

 実は何年か前にも、同じ店に同じ値段で出たことがあり、そのときも触ることもできぬまま踵を返したのだった。そして、あんな本を買う人がいるわけないから、しばらく通って店晒しになっている様を楽しもうと思った。ほらね、誰も買わないでしょ、わたしだって買わないよ、と。

 ところが次に行ったときには既に消えていた。

 

 今度も同じことになるかもしれない。でも、あんな本を買う人が二人もいるだろうか。今度こそ店晒しではなかろうか。

そうなってもわたしは買うまい。学校の図書館にあるし、コピーをとった箇所もあるし。

でも、学校の本は書庫に入っているから時間のあるときしか見られないし、ぼろぼろなのでコピーをとるとき壊れそうで気を遣う。

でも買わないよ。

 

 

11月27日(日)

 先日、星台先生故居の近くの古書店の店頭ワゴンで今井宏『明治日本とイギリス革命』という本を発見。

 今まで、ジャン・ジャック、兆民、楊篤生「紀十八世紀末法国之乱」等、という線ばかり考えていて英国史を忘れていた。言われてみれば、篤生も英国の革命について書いているし、なにより、責任内閣制を唱えた宋遯初君の後ろには英国帰りの章行厳がいた。

 

 400円だったけれど、遠くない将来に転居せねばならず、これ以上本を増やすことには慎重になっている。だからとりあえず図書館を当たってみたところ、学校にはなかったので、区立の図書館で昨日借りてきた(最寄りの館にはなく、区内の他館からの取り寄せ)。

 

 ここのところ、仏書だの日本中世だのばかり読んでいて、こういう本は久しぶり。ちょろっと見た限りではおいしそう。

 

 

日記表紙へ