千歳村から 〜日記のようなもの      

 

2005年10月8日〜

 

 10日 11日 13日

 

10月8日(土)

 てやんでえ、こちとら毎日がヤンさまフィーバーよと、TVの芸能ニュースを見ながら意味不明のことを呟いてみる。

 

そそのかされて熊谷次郎直実のことなど書いてみた。楽しかった。改めて平家はすごい、左伝はともかく史記には勝る、世界に誇れる文学作品だと思った。

 でも、そんなことしていてもやはり、東国武士の経済基盤とか、平氏興隆の基である日宋貿易なんぞが気になるし、玉葉と平家とを逐一つき合わせたらおもしろいだろうなどと思ってしまう。習い性になっているな。

 

 きのう不意に休みがとれたので京橋の国立近代美術館フィルムセンターに成瀬巳喜男の映画を見に行った。途中で鍛冶橋交差点を通り、「ここがあの呉稚暉が身を投げた場所!!」と。

やっぱり離れられないかな。

 

 

10月10日(月)

 双十節。辛亥革命勃発から今日で94年。めでたい革命記念日なのだけれど、その後の経過を考えると本当にめでたいのか疑問がなくはないし、わたし個人は気力体力とも低下していて甚だ状態が悪いし、天気はずっと雨続きで常に室内に洗濯物が干してあるし。

 なかなか最低だ。

 せめて天気がよくなれば。秋霖だと言われればそれまでのようだが、秋霖前線が居座っているのは夏の空気ががんばっていて南下できないからだということなので、だったら温暖化のせいではないかと思うし。

 うー。これでいいのか? よいわけないな。元気になる方法を考えよう。

 

 海育ちの夫は海を見ると元気になるけれど、わたしは青空が見たい。高い高い空を見て、エレカシを歌いながらずんずん歩くのだ。

 

 

10月11日(火)

陰暦九月九日、重陽。高いところに登らなきゃと思ったが、考えてみれば職場が10階だ。慣れっこになっていてなんとも思わないけれど、真下を見るとやはり恐い。

 ここで杜甫でも口ずさめるといいのだけれど、残念ながら無教養。お酒も飲めないし。

 

水道橋駅前、後楽橋の上をゆりかもめが乱舞していた。四時はめぐる。天子の徳とは関係なく。

 

 

●10月13日(木)

楊徳麟の命日。1913年10月13日、湯薌銘によって銃殺された。

彼は黄興さんの信任が厚く、国民党湖南支部を任されたり、湖南省財政局長として水害被災民の救済に努めたりしていた。で、寧仙霞なんかと一緒に反袁運動をしていた。

 

この人、1903、04年ころは長沙の明徳学堂の教員だった。同僚の黄興さんは華興会を作ってごそごそしていて、当時の明徳には教員にも学生にも会員がいた。徳麟は加入しなかったがシンパではあったと、学生だった黄一欧(黄興長子)が書いている。

弟さんがこのとき長沙に行ったかどうかは不明。行かなかったんじゃないかと思うが、連絡は密だっただろう。

そして黄興たちが逃げたときに徳麟も日本に渡り、その後は楊度と行動をともにしたため、華興会から立憲派に後退したと言う人もいるが、そういうことではないと思う。

 

篤生が渡英するとき、薬を持たせているんだよね。上海で顔を合わせているのかどうかわからないけれど。

立場を異にしても、仲はよかったのだろうな。

 

享年四十四。

 

 

 

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