●9月3日(土)
昨日は例年どおり山の上へお札をかえに。夜は麓の温泉に一泊。もう10年くらいになるか。ずっと春に行っていたが、杉が恐くて去年から秋に変えた。山の上は寒いかと思ったがそうでもなく、里に下りてからはむしろ熱射病が心配なくらいだった。
山の斜面に鹿がいた。母子三頭。こういうことがあるとうれしい。
出不精なたちなので、ここ数年というもの、泊まりがけの外出は夫の両親を見舞うほかはこのお詣りだけ。宿もここ何年か固定しているし、かわりばえはしないが、気持ちのよい土地なので満足している。町が寂れてきているように見えるのは気になるけれど。
●9月9日(金)
矛盾するようだが 激烈なる変化を
求めるあまり そうさ 死んでしまう人がいる
(無駄死にさ やめた方がいい)
宮本浩次「so many people」
最近この曲ライヴで演ってくれないけれど、かつてこれを聴く度にわたしは凍りつき、アンケートに宮本の知るはずもない呉樾のことなど書きつづったものだった。
明治文学狂の宮本が誰を念頭においていたのか知らないが、これが彼なりの愛情表現であり、自戒ですらあることくらいは、わたしにもわかる。
宮本も変な人です。孔子だの荷風だの鴎外だのが、当たり前のように歌詞に出てくる。
そして、星台先生で頭いっぱいで忘れていたけれど、呉烈士も今年で100周年だ。
100年前の今月24日、北京駅で爆裂する。自爆テロのはしりのようだけれど、懐中で爆発したのは事故であって、本当は投げつけるはずだった。
(……自爆テロなら、もっと前からロシアでやっているね)
章士サの若い頃の年譜をまとめてみた。
01年 武昌で黄興と識る。
02年春 南京で学ぶ。
03年4月 学生運動で放校になり上海へ。
愛国学社に迎えられる。拒俄運動の真最中。
鄒容、張継、帰国。章太炎と四人で義兄弟の盟。
(4月30日上海で拒俄大会)
(5月26日上海拒俄義勇隊を軍国民教育会に改名)
5月27日蘇報主筆になる。帰国した黄興と会う。
7月 蘇報案。章太炎、鄒容は下獄。呉稚暉亡命。蔡元培は青島に逃れる。
章士サは何故かおとがめなし
11月 長沙で華興会結成に参加。すぐ上海に帰る。
04年2月15日長沙で華興会結成。
上海に愛国協会。会長楊篤生、副会長章士サ。
夏〜秋 暗殺団に蔡元培ら加入。
11月 万福華事件。
その後、日本へ亡命する訳だ。
軍国民教育会の暗殺団は楊篤生、蘇鵬、何海樵、周来蘇、胡晴香A湯重希の六名。03年11月ごろ、横浜で暴発事故。楊と蘇が目に負傷。(蘇鵬の回想)
横浜で爆弾の研究をしたのち、北京へ行って慈禧太后を狙うが、果たせず上海へ。ここで蔡元培、劉師培、章士サらが加入。(陶成章、蘇鵬らの回想)
上海で楊篤生、章行厳、何海樵らが結成。行厳に招かれて陳独秀も加入。蔡孑民もよく実験室に来ていた。(陳独秀の回想)
蔡元培は加盟時に蘇鵬に鶏の血をすすらされる。(蔡元培自写年譜)
どうも今ひとつはっきりしない。地下活動で、後年の回想に頼るしかないからしかたないのだが。
明日図書館に行けたら、陶成章の書いたものを見てくるつもりだ。
●9月10日(土)
急いで洗濯終えてとんで行ったのに、図書館は夏休み態勢で書庫に入れなかった。仕方ないので、行きの電車で読み終えた『テーラガーター』のかわりに『テーリーガーター』を借りる。
そのまま神保町に下りて中国書店をはしごしたけれど収穫なし。
でも、『陳宝箴集』があった。ぎょっとしたが、とんでもない厚さだし、上巻だけで五千円近い。誰が買うんだ、こんなもの。
それでもぱらぱらめくれば譚継洵なんて名も目につく。譚嗣同のお父さんだ。
図書館に入るといいのに。
結局買ったのは亀澤堂の最中だけ。
七日の月が出ている。いい月だ。
●9月18日(日)
毎年書いている気がするけれど、やっぱり今年も書く。
一昨日、9月16日は大杉、野枝、宗坊の殺された日。
そして今日は九・一八。戦争を始めた日。
本当はそんな面倒くさいことはいわないで、今日は千歳村の先輩である徳冨健次郎の命日なのだから『みみずのたはごと』でも読みましょう。蘆花さんの墓前祭は、近隣の人たちやファンによって今年も営まれたはず。
そして夜には満月を愛でればいい。今日は陰暦八月十五日、中秋節です。
もうすぐお彼岸。彼岸花がつんつんと出てきている。じき咲くだろう。昼間は暑かったけれど、それは日の照っているところだけで、家に入れば心地よい。ミンミンもツクツクも昼間だけ。夜はすっかり秋だ。
それにしても、いい月だ。明るすぎる。
●9月22日(木)
時間がとれず書けなかったが、19日の月曜日はカスタネッツのライヴだった。宮本に会うたび、この世に音楽はエレカシだけあればいいと本気で思うが、カスタに行けば行ったで、このバンドのファンでよかったと思うのだ。
1曲目から大曲「Through」をぶつけられてしまったので、いきなり泣かされてたまるかとけんか腰になって、叫ぶ元ちゃんをにらみつけていた。
「思いがけないほど人は強いから 壊れながらだって進んでいた」
「行き止まりだって その先に続きがあって 新しいページがそっと始まっていく」
……「始まっている」を「始まっていく」と歌ってくれた。このほうがよい。
かつて女の子のように愛くるしかった元ちゃんは、復活したら精悍な大人の男になっていたけれど、最近は精悍を通り越して、何というか、やつれてきた? 老けてきた? 今なら競馬場でも違和感なく溶け込めているだろう。どんな生活を送っているのか、ちょっと気がかりだ。
こういう人には生活の心配などさせたくない。
閉塞した現状を何とかしたい。カスタネッツというバンドはお嬢ちゃんたちが掌中の宝物のように大切にしてきたのだけれど、それが息苦しくなっている。高校生だったファンも今では20代半ばとはいえ、メンバーと懸隔があることには変わりがない。
牧野元は来月には38になるんだよ? ああ見えて相当男っぽい男だよ。お嬢ちゃんたちの掌の中に収まっていられるようなサイズじゃないんだ。
もっと同世代のファンが増えてほしい。男も。
別にわたしがライヴ会場でひとりで周囲から浮いているからではなく。
●9月24日(土)
朝、鵯が怒鳴っていた。山からお帰りのようだ。そういえば昨日はにぎやかだったツクツクも今日は鳴いていない。秋霖といわれてはしかたないが天気が悪い。台風さんも来るようだ。
呉樾烈士没後100年。
1905年9月24日日曜日(乙巳八月二十六日)、北京駅で爆弾が炸裂。各国の立憲制度を視察する五大臣一行を狙ったテロルだ。楊篤生手製の爆弾は呉樾の懐中で暴発してしまったため、死者五名、負傷者七名を出したものの肝腎の大臣は載澤ら二名が軽傷を負ったのみだった。
呉樾が遺した「暗殺時代」を改めて読み直してみた。
これだけ見た限りでは、残念ながらただの排満主義者で、思想的には大して見るところはないようだ。
ただ、「妻」への手紙は泣ける。彼は孤独な青年で、週末に許婚と会うことだけが楽しみだったが、覚悟を決めていたために正式な結婚はしなかったそうだ。
その手紙に曰く、「吾之意欲子他年與吾并立銅像耳。愛子之甚、故願子棄死就生、以為同胞復九世之仇焉」(私はいつかあなたと並んで銅像が建てられるのを望むだけだ。あなたを非常に愛するが故に、あなたには死なずに生き延びてもらいたい。そして同胞の九世の仇を討ってほしい)と。
その後段でも、一所懸命に教え諭し導こうとしている。
自身の主権は自身が持っているのであり、決して奴隷になってはならない……とか。
ほほえましいというより、むしろ痛い気がする。
なお、陳星台が『民報』創刊号に呉樾の事件について書いている。実行者の身許が不明の時点での文章で、従ってどういう立場によるテロルなのか(立憲改革反対といっても、守旧派と革命派と両方ありうる)わからないままに、身命を賭しての主張という一点に対して共感を寄せている。
星台は呉樾の数少ない友人の一人だった。
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