千歳村から〜日記のようなもの      

 

2005年7月3日〜

 

 10日 11日 14日 17日 23日 26日 27日

 

7月5日(火)

 職場の壁に貼ってある地図をぼんやりとながめていて、クリスタルパレスなる建物を見つけた。水晶宮とは大仰な。

 

 春秋時代に呉王・闔閭がそんな建物を建てたとか、大秦国(ローマ帝国)にもあったとかと言われるが、わたしが反応したのはそれではない。

 

 1851年のロンドン万国博覧会で建てられた建物だ。ヴィクトリア朝の威信を示すべく、当時の技術の粋を集めたものだという。総ガラス張りのやたらに壮大な建築物で、ドーム状の部分にはニレの巨木が生えていたとか。これはもともと建設地にあった木で、伐るはずだったが反対運動が起きたために、そのまま取り込んでしまったそうだ。

 博覧会の後は別の場所に移築されたが、最後は失火により全焼したとのことで、どこまでも人騒がせな派手な建物だったらしい。

 

 楊篤生が妻と娘と母とに、この水晶宮を刺繡したハンカチを送っている。万博のハンカチを送ると娘と約束したが、多忙で行けなかったので代わりにと。英字でCrystal Palaceとあるのは水晶宮のことだと書き添えて。

 

 あの楊篤生がどんな顔をして選んだのだろう。

 女たちにはきれいなハンカチを、男の子たち(息子、娘婿)には進んだ文物を写した絵はがきを。

 

 黄興さんが絶賛した、思想が緻密で遺漏がなく非常にねばり強く努力するという美質は、家庭人として発揮されるといささか厄介だったようだ。こまごまとしたことをねちねちくどくどと指示したり難じたり。夫として父としての楊篤生は、そんな感じだったらしい。

 

 そうではあっても、そして10年間で家族と会ったのは2回だけ、合わせても1カ月にも満たないというほど放っぽらかしで、娘の婚礼にも帰れないありさまであっても、やはり家族を大事に思い、喜ばせたいと思っていたのだ。

 そう思うと、ちょっとやりきれない気がする。

 

 星台先生が娶らなかったのは、正解だったのか。

 

 

●7月10日(日)

 昨日の日比谷野外大音楽堂でのエレカシのライヴはすさまじかった。雨の時は燃えるものだが、そんなレベルじゃなかった。時間も2時間を優に越えていたし、曲は数えたら27曲! ここのところ1時間半くらいのライヴが多かったのに。

 宮本は何度も、もっとやっていいかと、たくさんやりたいんだと、断っていた。こっちは無論、大歓迎だ。

 以下に、夫が某BBSに書いたレポートを借用する。

 

開演前には既にどしゃ降り。座っているとズボンが濡れるので、合羽を着たままかかしのように立ち尽くして待つこと30分あまり。

いつものように6時12、3分にメンバー登場。イントロが始まる中にミヤジ登場。成ちゃんの股をくぐったのは私も憶えている。

 

1曲目生命賛歌はパワフル且つ丁寧だった。時折歌詞を間違えそうになると一所懸命修正していた。全体に今回はしっかりと歌詞を確認してきていて、クオリティーが高かった。声もよく出ていた。

2曲目はダイダイ(デーデ)「貧乏人にお届けしよう」とか、「稼げ」とか、「稼いでからものを言え、おれもまだだけどな」とか言っていた。

星の砂をやめて浮き草にしたのは、お約束の流れを嫌ったためと思われる。今回は曲順をはっきりとは決めていなかったようだ。1曲1曲メンバーに確認をとっていた。

風に吹かれての前に少しMC。「爆笑してんじゃねえぞ。先生にはみんな聞こえてるんだからな」と。

すまねえ魂は、たいへんよかった。恵比寿で聴いた時にはやや疑問を感じたのだが、今回は客に媚びるようなところが微塵もなく、硬質で斬りつけるような歌い方をしてくれたので、のたうち回って何かを探し求めているミヤジの心境を真っ直ぐ感じ取ることができた。

おまえの夢を見た、震撼もの。

孤独な旅人。確か、宮本一人で始めて、バンドが入ろうとしたら止めて、後半になってから四人になったような気がする。

一旦、真夏の星空をやりかけてやめて、珍奇男。椅子の座面に足を置き背に腰掛けていた。気合い入りまくりで、見ていて恐ろしいほど。「机さん机さん、わたしはばーかでしょうか」何だかわからないけどむちゃくちゃ感動した。

真夏の星空はキーが合わなくて少し残念。好きなのに。

 

どこでだったかは忘れたけれども、ステージから見て右手の野郎どもの声援がすごかった。

 

やるか、普通。「暇な奴だけ聴いてくれ」と歌い出した時には、どうしようかと思った。「電話してーメール打ってー」と、少しアレンジ。

人生の午後は確かに少しだるい感じで、個人的にはアレなのだけど、今回見ていて気がついたのは、これはバンドのための楽曲だ。ヴォーカルの突出したメッセージソングではなくて、バンド全体としての歌であり歌詞なんだと思った。これはこれで納得。

おまえと突っ走るかけだす男は、雨の野音にはふさわしかった。でもこの曲の時にはやんでいたかな。途中で少しやんでいた。

 

いつ水をかぶったかははっきり憶えていないが、本編でかぶった時は「お義理だって言われましたけどね、お義理じゃないんだ」というようなことを言っていた。そのあと石くんの頭にバケツをかぶせ、それでも石くん弾いてたから曲の途中だったんだと思う。

石くんの弦は切れてました。ギターをあんまり取っ替え引っ替えするんで、「君たちギター自慢をしてるの」とミヤジが言ってた。「おれなんかこのために注文したギターが七ヶ月たってもまだ来てないのに」

 

ココロに花をは秀逸。歌い終わった後、本人が「渋い歌ですけれども一所懸命がんばってしっかり歌いました」みたいなことを言っていた。誇りたくなるのも無理はない。すばらしかった。

四月の風、「愛する人に捧げよう」を「愛する日々に」と変えていた。

 

アンコール1回目は客席がややおざなりで、うるさ型のおじさんとしてはちょっと御不満。それでもミヤジ、機嫌よく登場。

 

極楽大将、と好きな曲が続いて、凡人〜そぞろ歩き。歌い終わったとたんに「この曲は難しい。オタクっていうか24歳くらいの青年のなんたらかんたら」といきなりMCを始めた。おかげでなかなか声がかけられなかった。あれはきっと、あんまりうまく歌えたんで、本人照れたんだろうな。この人にはそういうところがある。

明日に向かって走れでアンコール1回目終了。

トミートミーと二回声をかけたら手を振ってくれた。

 

2回目は、ギャーギャーどなっていたらすぐ出てきてくれた。いきなり「ごめんなさい、いや、ありがとう」と、わけがわからん。

2回目に水をかぶったのはいつだったか。「それはいいのに」と客席で言うと、「白けるかなと思ったけど、やらないと心苦しいから」と、かぶってくれた。

月の夜。あまりにも壮絶。ちょっと私には表現できない。

ガスト。今を生きているガストだなと思った。懐メロになんかならない。雨はまた土砂降り。ライトが照らす雨の筋と、衝き上げる拳の林立との対比が鮮やかであった。一羽のアゲハがひらひらと舞っていたのも印象的。蛾だという話もあるが。

 

どこかの曲間で、「立ってる人見えますか」と言ってから、「いや、前の奴じゃねえんだ。後ろの立ち見。でもあそこは見えねえんだよな。おれも昔見たんだ」 思わず「何だろ、スライダーズかな」と口にしてしまったら、「いや、RC」と答えてくれた。前の方だったから聞こえたのかな。

 

武蔵野は確かに普通でない雰囲気は感じた。泣いていたかどうかまでは分からない。「おれの東京」と言った。確かにあんたの東京だよ。

 

ラストはファイティングマン。ああ、終わるんだなあと思った。完全燃焼した。終わってミヤジがありがとうと言ったように思う。こっちこそありがとうだ、ばかやろうめ。

以上、おじさんのレポートでした。

 

 

 ちょっとだけ補足する。

 孤独な旅人のときだったか、旅ということでツアーの話をしかけて、「九州の博物館と弘前の博物館とでは、歴史が違う。歴史の見方が若干違うんです」と。「こんな話してもしょうがない」とすぐにやめてしまったが、もっと聞きたかった。

 

 今回、トミがすばらしくかっこよかった。風に吹かれてって、あんなに派手な曲だったっけ。

 細い石くんは、頭を刈ってサングラスで、夫は恐いと言っていたが、わたしにはむしろかわいく見えてしまった。なぜか内田百閧フ「山東京伝」の山蟻を思い出してしまった。全然小さくないのに。

 

 

7月11日(月)

モンゴルの革命記念日。

 

 野音の後遺症がひどい。耳は昨夜寝るまで踏み切りみたいにわんわん鳴っていた。左腕は、まだだるい。筋肉がぱんぱんに張っている。昨日ほどではないのは、まだ若いから?

 以前、四十でロッケンローっていうふうになれるといいなと思っていたが、実際に四十を越して思うのは、四十どころか、五十になろうが六十になろうが、宮本たちがいる限り、ロックだと。二時間立ちっぱなしは厳しくなるだろうし、拳を突き上げることも減るだろう。でもロックだ。

「こんなもんかよ、こんなもんじゃねぇだろう、この世の暮らしは」

「あいつらの化けの皮をはがしに出かけようぜ」

「ただなぁ、破壊されんだよ、だめなものは全部」

「おまえは何をした。何をしてきた。……今にはばたいてやる、そりゃ口に軽かろうが、おまえは何処だ」

「おれは時々戦う前から勝負を避けて、あいつらに勝利をもたらしてきた。チクショー!」

「忍耐を説く我らが母は、できあがった無邪気な道徳家。俺の嫌いな似非インテリの、傀儡が宗教家」

「努力を忘れた男の涙は汚い。言い訳するなよ、おのれを愛せよ」

 これがみんな歌詞なんだから、宮本はすごい。

 

 神保町で『黄興年譜長編』を購入。口絵にある章士サ宛ての書簡を見て驚く。よく知っている手紙だ。1913年。楊昌済が殺されたというのはデマだから安心しろと。そして楊徳鄰の母は健在で事件のことは知らないと。

 楊徳鄰が袁世凱の手先に捕らえられて銃殺されたとき、徳鄰救出に奔走していた楊昌済も一緒に殺されたという噂が流れたため、昌済と留学仲間だった章が心配して問い合わせていたのだろう。

 だけど黄興さん、なぜ徳鄰の母親のことに触れているのだろうか。

気の毒だと思ったのだろうな。楊篤生は老母に自分の死を教えるなと遺言したけれど、いつまでも隠しておけることでもないだろうし、そのうえ次男に続いて長男までも。残った三男は病身だし。

楊篤生もひどい。1910年の手紙で母親に六十の賀の祝いを述べ、今回は不孝にもお祝いに行けないけれども、次の七十の祝いのときにはうんとご馳走並べて孝行しますからね、と書いているくせに、その翌年にとっとと死んでしまうとは。

 

 

●7月14日(木)

 フランス大革命。

 

 わたしの愛したテロリストにとってのテロルとは、要人暗殺のことであって、無差別テロでは断じてない。無差別なんて、発想自体がないだろう。

 そうだよね、カリャーエフ君。あなたは標的の馬車に子どもの姿を認めただけで、投擲を断念してしまった。臆したのでない証拠に、日を改めて成功している。

 アレクサンドル二世爆殺のときも、従者たちが怯えて逃げ去ってしまった中、まだ息のある皇帝を介抱したのは、通りがかりの史官学校生たちと、爆弾を抱えて待機していたテロリスト青年だった。彼が斃そうとしたのは、機関としての「皇帝」であって、アレクサンドル・ニコラーエヴィッチという個人ではなかったということか? それともそんな理屈などどうでもよく、単に傷つき苦しむ人を放っておけなかっただけなのか。

 悪鬼でも羅刹でもなく、単なる粗暴犯でもない。この一人を殺すことで、たくさんの人と未来とを救えるのならと考えたのだろうけれど、いざとなればためらいはあっただろう。そこで背中を押したものはなんだったのか。

 

 と、ここで、「あんた知ってるの?」と石川一君の「ココアの一匙」を引こうと思ったのだが、本が見つからない! 「はてしなき議論の後」はあるのに。この家で本が無くなったときは、まず見つからない。神保町を歩くときの探究書リストのほかに、家の中に確かにあるはずなのに見つからない探究書リストもできている。両方ともわたしの頭の中にあるだけだけど。

 『朝花夕拾』も、ずいぶん前から探しているが、一向に出てこない。神保町では見かけるけれど、癪だから買わない。

 

 うーん。はじめ君、隠れてないで出てきておくれよ。

 

 

●7月17日(日)

 ココアのひと匙

 われは知る、テロリストの

 かなしき心を――

 言葉とおこなひとを分ちがたき

 ただひとつの心を、

 奪はれたる言葉のかはりに

 おこなひをもて語らむとする心を、

 われとわがからだを敵に擲げつくる心を――

 しかして、そは真面目にして熱心なる人の常に有つかなしみなり。

 

 はてしなき議論の後の

 冷めたるココアのひと匙を啜りて、

 そのうすにがき舌触りに、

 われは知る、テロリストの

 かなしき、かなしき心を。

 

   (1911・6・15 TOKYO)

 

 

 見つからないから図書館で借りてきた。ついでにこっちも掲げよう。

 

 

  はてしなき議論の後

 われらの且つ読み、且つ議論を闘はすこと、

 しかしてわれらの眼の輝けること、

 五十年前の露西亜の青年に劣らず。

 われど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

 ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

 

 われらはわれらの求むるものの何なるかを知る、

 また、民衆の求むるものの何なのかを知る、

 しかして、我等の何を為すべきかを知る。

 実に五十年前の露西亜の青年よりも多く知れり。

 されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

 ‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

 

 此処にあつまれるものは皆青年なり、

常に世に新しきものを作り出だす青年なり。

われらは老人の早く死に、しかしてわれらの遂に勝つべきを知る。

見よ、われらの眼の輝けるを、またその議論の激しきを。

されど、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

 

あぁ蝋燭はすでに三度も取り代へられ、

飲料の茶碗には小さき羽虫の死骸浮び、

若き婦人の熱心に変りはなけれど、

その眼には、はてしなき議論の後の疲れあり。

されど、なほ、誰一人、握りしめたる拳に卓をたたきて、

‘V NAROD!’と叫び出づるものなし。

   

   (1911・6・15 TOKYO)

 

いずれも筑摩書房『明治文学全集52石川啄木集』1970年から。

 

この年の1月、彼は幸徳伝次郎が獄中から弁護士に送った手紙を密かに入手して、書き写している。また、クロポトキンに傾倒し、病苦と闘いながらアナキズムの研究を進めている。

 

「V NAROD」と「開民智」とには、決定的な違いがあると思う。前にも書いた気がするし、面倒だから今は措いておくけれど。

 

「中国のナロードニキ」と呼ばれる楊篤生は如何?

彼は確かに「開民智」から始まっているが、けれども彼は下等社会こそが「中堅」だと言っている。日本語だと中堅のほかに大将がいそうだけれど、漢語の場合は中堅こそが大将だ。そして中等社会は「前列」、鉄砲玉に過ぎないのさ。

でも、ナロードニキと言っていいのかどうか。彼はナロードの中に入って行ったことはないだろう。おそらく手ずから洗濯したことすらないのではないか。

ナロードニキたちのそういう活動に興味を持ち、紹介してはいるけれど、。

 

 

7月23日(土)

 夕方、強い地震。揺れより先に音を感じたのだが、あれは何の音だったのだろう。伊豆半島の付け根に住む姑も、揺れより音が先だったと言っていた。

 仕事で都心に出ていた夫は、地下鉄が駅に1両目だけかかったところで止まり、みんなその1両目から降ろしてもらったそうだ。

 

 

 年来の謎が、ひょんなことから解けてしまったかもしれない。

 楊篤生の詩、「芬園盪舟」。この「芬園」はFinsburg Parkなのか、Finsbury Parkなのか。『楊毓麟集』の口絵に本人の手蹟の写真があるが、毛筆で書いているために字画がつぶれて、gかyか、いくら見てもわからなかった。

 フィンスベリーパークが正解なのだろう、たぶん。ロンドンにそういう公園があるそうだ。Finsburgというのもあるのかもしれないけれども。

 

 テロル関係の報道でわかったというのも妙な話だ。どうしても楊篤生と爆弾テロとは切り離せない。汪兆銘が摂政王(宣統帝の父親)を爆殺しようとした事件に使われた爆弾が、スコットランド製だったという説もあるし。篤生が老母と黄興さんとに遺した金は、爆弾工場をつくるために貯めていたものだともいうし。

 蔡元培に爆弾狂みたいに書かれたのも無理はないか。

 

芬園盪舟(Finsbury Park

幽思陵八極

吹堕一坡塘

人語秋煙碧

船迎夕照黄

因波鏡華発

将蔓訴流光

已倦回天地

乗桴興未忘

 1910年の作。署名は寒灰

 

 アバディーンで詠んだから、「ボート遊びの楽しさは今も忘れない」と回想形なのだね。

 

 「利赤蒙公園」という詩もあり、これはすぐにリッチモンド公園と分かった。篤生はリッチモンド公園を散歩するのが好きだったと、60年以上経ってから章士サが書いている。植物標本が豊富だと。

 

 公園好き、緑が好き、歩くの好き。おまけに仏徒で。

 わたしもです、わたしもです。

 

 例年のことながら、この時期になるとわたしは頭がおかしくなる。ほとんど恋わずらい状態だ。

 おまけに最近新しい情報が入ってきたため、はなはだ混乱している。これがまた、生々しくて。

 辛いよなあ。

 

 夫の目も冷たいし。

 

 

7月26日(火)

 台風はちょっと拍子抜け。えらい目にあったのは朝だけで、昼はほとんど傘ささずに散歩できたし、帰りも大丈夫だった。

 

 一昨日のカスタのライヴ。対バンがいたずらに長くて、カスタの分が短くなった上に帰りも遅くなり、老いの身には少々きつかった。おばさんは腰が痛くなりました。

 2バンドともいい加減古いバンドだから、ファンもそれなりの年齢になっているはずだが、30越えているのはあまりいないようで、わたしは完全に浮いていた。エレカシなら若いのもいるが同世代も多いのに。

 でもステージを見れば、若ちゃん36、元ちゃん37、コミ38。お嬢ちゃんたちよりもわたしのほうが、メンバーと歳は近いぞ。

 

ライヴ自体はよかった。

 押されているうちに元ちゃんの真っ正面、4列目くらいに来てしまったので、目を見開いて凝視していた。汗の玉を振りまき、青筋立てて絶唱する元ちゃんは、男っぽい大人の男だ。女の子のように愛くるしかったのは昔の話。お嬢ちゃんたち、勘違いしないでね。

 

 なぜわたしがカスタのライヴに行くのかわかった。わたしは元ちゃんの目を見に行っているのだ。異常者の目。歌っているときとそれ以外とでは生き物が違う。

 もちろん宮本もそうだけど、エレカシじゃこんな近くでは見られないから。

 

 でも、QUEでエレカシもやったんだよね。この距離でエレカシ! 想像するだに恐ろしい!

 

 いつものことだが、元ちゃんの歌を聴くと牧野信一を思い出す。どこか通じるところがあるように思えてならない。同県同姓だが、まさか縁者ではあるまいに。

 夫が小説を書いていながら、わたし自身は小説は苦手だ。ごくごく狭い範囲の数人の作家だけしかうけつけず、同じ作品ばかりを繰り返し読むことになるが、それも滅多に読まない。精神的スタミナに欠けるので、どうにも億劫で。

 でも、マキノは好きです。

 

 

7月27日(水)

 昼に表に出たはよいが、あまりに凶暴な陽射しに負けて、図書館に逃げこむ。といっても、今は別に用もない。今日から夏休みの長期貸し出しなので、とりあえず1冊借りる。

 そのあと、辞書遊びで時間つぶし。辞海を見ていたら江標が写真入りで載っていた。もちろん弁髪の、つるっとしたきれいな顔だった。

 1894年にこの人が湖南に来たところから、全ては始まったのだ。どうして湖南なのか、そこに、さいてん君の野心か何かが働いていたのか、それは分からないのだけれど。

94年といったら、さいてんは数えで24歳。いい歳だ。

 

『左伝』なんか見てるとよくわかるが、とりあえず幼君を立てておいて、周囲が好きにやるというのは、よくあることだ。問題は、幼君はいつまでも幼君ではないということ。大人になったらどうする?

魯の襄公なんかは、在位31年、34歳で死ぬまで、実権はなかったようだ。その息子の昭公は19歳で即位したから幼君とは言えないが、実権を取り戻そうとクーデター(?)を企てて失敗し、亡命先で死んでいる。

光緒帝さいてんは4歳で即位して、98年には政変で幽閉され、08年没。気の毒ではありますね。

 

 

 

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