千歳村から〜日記のようなもの      

 

2005年6月3日〜

 

 10日 17日 18日 22日 30日

 

6月3日(金)

本人たちに対して失礼だと思うから、ミーハーは極力排そうと努めている。みんな真剣に生きた人たちだから。

 

 ときどき若いミュージシャンが、「ジャニス・ジョプリンの生き方にあこがれる」とか、「カート・コバーンになりたかった」などと言うのを聞くが、そんなことを言われても本人たちは喜ばないだろう。ジャニスもカートも、あんな生き方、あんな死に方をしたかったわけではないから。

二人とも、幸せになりたくて、もがいてもがいてもがいたけれども、結果としてああいう悲しいことになってしまっただけだ。だから、音楽的に尊敬されるならともかく、生き方についてどうこう言われたくはないだろう。ましてや、あこがれるだなんて。

 

なに言っているのかわからなくなってきた。

要するに、思想や行動などの事績に対して、真摯に向き合っての批判や評価ならよいが、浮ついたことはやめようとの自戒だ。

 

何度も自戒せねばならないのは、わたしの本性がそれだけ浮薄でミーだから。なにせ、仏典を読んでも、アーナンダがかわいいと言い出す始末だ。

 

でも本当にアーナンダはかわいいの。

釈尊の十大弟子の一人、多聞第一の人。というのは、彼は釈尊の侍者として、釈尊入滅まで二十余年にわたりお側にお仕えしていたから、釈尊の説法を一番多く聞いているため。お経によくある「如是我聞=かくの如く、われ聞けり」の「我」は彼のことだそうだ。

彼は気持ちの優しい人なので、釈尊もかわいがって側においていた。シャカ族の王族の出で、釈尊の従弟に当たるらしい。

美男で育ちがよくてそのうえ優しいために、女難の気があった。道成寺の安珍の原型じゃないかとわたしは思っている。

 

あるときアーナンダは被差別民の娘から水をもらって飲んだ。アーナンダは仏弟子だから全く気にしないが、普通の人だったら絶対にしないことだ。

だから娘は驚き、そしてアーナンダに激しく恋慕した。「かなえてくれなければ死ぬ」と娘は騒ぎ、娘の母親も「娘が死んだらお前を殺す」と脅す。そして母親は火を放ち、アーナンダを炎の壁に閉じこめた。

そこはなんとか神通力で逃れたものの、娘はその後もしつこくつきまとう。困り果てたアーナンダが釈尊に相談すると、釈尊は娘に会ってこうおっしゃった。「そんなにアーナンダが好きなら、お前もアーナンダと同じ姿になりなさい」と。

娘はすぐに出家し、修行を積んで迷いも解け、立派な尼僧になりました、と、こんなような話だったと思う。

 

これは「話」としても、釈尊の説法を聞きに集まる女性の中には、釈尊の側にいつもいるアーナンダが目当ての人も少なくなかったのではないか。

それでいいと、わたしは思う。牛に引かれようが見目よい僧にひかれようが、きっかけは何でも構わない。それも縁だ。

 

かく言うわたしも、高校生か大学生のときガンダーラ展に行って、釈尊像のあまりの美しさに惚れて帰ってきたクチだ。

きれいな人、好きです。ごめんなさい。

 

 

6月10日(金)

 昨日はロックの日。でも忙しくて何も聴かなかった。散歩しながらエレカシ歌っただけ。

 

いやな季節が始まってしまったらしい。わたしの大事な散歩道が、今年もまた毛虫道になってきた。

この人たちは花房かモールか小さなネジかコイルに似ているので、うっかり踏まないよう注意を要する。これが歩道橋の段々いっぱいにいるようになると、足の踏み場がなくなるから、道を変えねばならなくなる。実際、つぶれたのをよく見たし。

 

だから毛虫の皆さんに対して声を大にして言いたい。お互いの幸福のため、皆さんは大人になるまでしっかり木につかまっていてほしい。まかり間違っても、車道側の植え込みに行ってみようなんて気を起こして、歩道を横切ったりしないでほしい。

そして四十雀の皆さん、歩道をよくよく見てください。ごはんが歩いています。

 

殺虫剤を撒かれるよりはいいけどね。

先日のカスタネッツのライヴで、牧野元が言っていた。最近の殺虫剤はひどくないか。アリの巣コロリなんて、巣ごと殲滅しようっていう思想が恐い。アリが何をしたっていうんだ。だいたいケムシコロリとかっていうけど、蝶になっちゃえば、あら、東京にも自然があるのね、とかなんとか言ってるのに。

云々かんぬんと、やたら力説していた。どうしたの、元ちゃん。何か辛いことでも?

 

かくいうわたしは単に踏みたくないだけです。

 

 

6月18日(土)

 昨日のミュージックステーションを見て驚いた。カスタネッツのライヴで、対バン、といえば聞こえはいいが実質は人気も実力も前座としかいいようのなかったバンドが出ていた。下北沢のハイラインレコードの一押しという触れ込みだったが、ハイラインでこないだまで1位だったのはカスタだ。ことばを大事にする日本語ロックというけれど、だったらあいうえおをはっきりと発音してほしい。英語なまり(?)では歌詞が聴き取れない。

 以前だれか(QUEの店長?)が書いていたが、カスタの登場は画期的なものだったとか。ロックといえば頭ツンツンで英語なまりが当然だった時代に、普通の格好で日常感情を歌うバンドの出現は、衝撃だったとか。後にスニーカー系などと言われて

極々普通の形態になったけれど、先鞭をつけたのはカスタだったのだとか。

 わたしなどは95年のメジャーデビューまで知らなかったのだから、えらそうなことは言えないけれど。

 

 なぜカスタがインディーなのか。売れる要素は十分あるのに。

 契約切れたのも売れなかったからではなく、むしろ動員も増えて上げ潮状態だったときに、勝手に自壊しただけだし。まあ、まる二年も充電していれば契約も切れますね。

 それでもファンは待っていた。もうブリッツ規模では難しいのだろうけど、QUEなんか詰め込めるだけ詰め込んでいる。

 

 メジャーから声かからないかな。全国ツアーできないかな。遠方の人がかわいそうだ。

 

 問題なくはないんだ。根がフォークだから曲はきれいだが野暮。そして詞は、昨日のTVに出ていたバンドみたいに解りやすい歌ではない。難解でそら恐ろしいところがある。そして元ちゃん自身が、自分の異常さに気づいていない。解りやすいとすら思っている。解らないよ。解るけど。

 

 わたしはときどきカスタの歌を歌いながら涙ぐんでいる。胸がつまって歌えなくなることもある。恐ろしい歌だから。

 

 

6月22日(火)

十大弟子のアーナンダに恋慕した不可蝕民の娘のことをもう少し。

得度式のようなものが当時あったかどうか知らないが、釈尊の前で出家するということは、彼女にとって結婚式と同じだったのだろう。彼女の執着は、代替のきく肉欲ではなく、彼でなくてはならない恋であったから、たとえ肉体として結ばれることがなくとも、あの方と同じ姿になったということだけで、精神的な結びつきが得られた(と思える)ことだけで、満足したのだ。

不可蝕民の彼女にとって、立派な身分の人(アーナンダはクシャトリア)から人間として遇されたのは、初めてのことだった。その感激が恋というかたちをとったのは、相手が美しいアーナンダだったからで、例えばシャーリプトラのような年配の人だったら、また違う話になっていただろう。それが優れて精神的なものであったからこそ、釈尊のひとことで収まったのだ。

 

ついでにいえば、仏教には本来、女性蔑視はないような気がする。比丘(出家した男の僧)、比丘尼(出家した女の僧)、優婆塞(男の在俗信者)、優婆夷(女の在俗信者)、まったく当たり前に並列されているもの。

それに、釈尊はにとってはそんなことはどうでもよかったのではなかろうか。あの方はわたしには不可解な謎の人物だけど、そんな気がする。

 

 

6月30日(木)

二十四歳の宋遯初君もかわいいけれど、アーナンダもかわいい。でも、彼、幾つだろう。

 アーナンダは釈尊が五十五歳のときから入滅まで二十五年間にわたって侍者を務めた。一緒に出家した釈迦族の青年たちの中で最年少、釈尊とは従弟とはいえ親子ほども違ったというが、二十五年も仕えたのだから、釈尊入滅のときにはいい加減な年齢になっていたはずだ。にもかかわらず、かわいい印象がある。

 十大弟子中、孔門における顔淵と子路とを思わせる智慧第一のシャーリプトラと神通第一の目連(難しくて覚えられないので漢訳名で)は、顔子・子路と同じく師より先に世を去っている。といっても顔子たちと違って師より年長だったらしいから、八十まで生きた釈尊に先立ったのは無理ないだろう。

 そのシャーリプトラの訃報をうけて、アーナンダは取り乱し、釈尊に慰められたという。釈尊御自身にも痛手でないはずはないが、そこは覚者だから。

 そして釈尊の入滅の際も、師の最期の近いのを知ったアーナンダは嘆きに嘆き、かえって釈尊に慰められている。それまでの多年にわたる労をねぎらい、感謝のことばを与え、おまえもきっと悟りをひらけるとおっしゃった。アーナンダはまだ悟りをひらけていなかったのだ。

 そんなことを言われては、アーナンダはよけいに泣いてしまう。釈迦涅槃図で彼を、泣き崩れて背しか見えない姿で表現したのを見たことがある。

 

 やがて教団の長老格で後継者となる大迦葉が駆けつける。そして師の教えが散逸しないようにということで第一回仏典結集が行われるが、アーナンダは悟りをひらいていないから資格がないとして、大迦葉に追い払われてしまう。

 それでアーナンダは一晩わんわん泣いて、泣いているうちにめでたく悟りを得て、とって返して大迦葉に迎え入れられ、「如是我聞」と始めたそうな。

 大迦葉は出家して八日で悟りをひらいたというのに、二十五年間も最もそば近く仕え、最もたくさん説法を聞いているアーナンダが、なぜ釈尊在世中に悟りを得なかったのか。

 そんなことは俄か勉強のわたしの知るところではない。頭がよかったので全部情報として処理してしまったのだとか、頼まれたらいやとは言えないような性格の弱さがいけない(大迦葉には色々なことでずいぶん叱られてきたようだし)とか、他の弟子たちと違い托鉢や説法や瞑想よりも釈尊のお世話が第一になっていたからとか、いろいろ説はあるらしい。

未熟なわたしには全然わからない。ただ、釈尊がいなくなったとたんに悟りを得られたということは、あまりに偉大な人のそばにいたためなのかもしれない。どうしてそうなるのかは解らないけれども。

 

 

 

 

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