千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年12月7日〜

 

8日 18日

 

●12月7日(火)

 「清国人同盟休校   東京市内各学校に在学する清国留学生八千六百余名の同盟休校は大学教授連盟辞職に次ぐ教育界刻下の大問題なり右は去月二日発布の文部省令清国留学生に対する規程に不満の念を懐きたるものにして該省令は広狭何れにも解釈し得るより清国学生は該省令を余り狭義に解釈したる結果の不満と清国人の特有性なる放縦卑劣の意志より出で団結も亦頗る薄弱のものなる由なるが清国公使は事態甚容易ならずとし兎に角留学生一同の請ひを容れて之を我文部省に交渉するに至りしが有力なる某子爵は両者の中間に於て大に斡旋中にして右の結果両三日中には本問題も無事落着すべしといふ」

 『東京朝日新聞』1905年12月7日

 

(さねとうけいしゅう『日中非友好の歴史』朝日新聞社1973年より孫引き。文中の強調はゆり子による)

 

 例年どおり今年も掲げる。この拙い日記が続く限り、何回でも掲げる。

 

 

●12月8日(水)

陳星台先生没後99年。つまり100回忌になる。

 

 12月6日

 この夜、陳星台は宮崎寅蔵を晩餐に招く。星台の寡言と言語不通とにより、「乾杯、乾杯」「好、好」ばかりで会話らしい会話もないが、そうしていても星台の謙遜優美な徳性があふれるばかりに伝わってきて、なんとも慕わしく恋しい、忘れ難い気持ちにさせられたと宮崎は記している。

 12月7日

 この日は終日、寓で書きものをする。この日に書かれたのが「絶命書」と亡父陳宝卿の小伝。同じ日に程家テイ(木+聖)は『朝日新聞』に対する真っ向からの堂々たる反論(もちろん「放縦卑劣」の語にも触れている)を認めて同紙に投書し、11日付で掲載されている。

 12月8日

 朝、普通に起きて朝食をとり、友人に二円借りて寓を出る。彼は神田区西小川町一ノ一(現・千代田区西神田2−3辺り)の東新訳社に、同郷人六名とともに住んでいた。同居人は書いた物を印刷に回すのだと思って気にも留めなかった。

 そして星台は、「絶命書」を芝御門前の郵便局から清国留学生会館宛に書留で出した後、大森海岸で踏海する。

 通常思われているように、激情に駆られてどっぷんと投身したのであれば、なんぼか楽だっただろう。けれどもあいにく大森の海は遠浅だ。この日の天気については史料が混乱しているが、曇りか大雨かどちらかだ。いずれにせよ身を刺すような寒気の中を、星台は静かだが確固たる意志をもって、沖へ進んでいったのだ。

もっとも、海育ちの夫に言わせれば、すぐに何も分からなくなるから大丈夫、むしろ優しく抱きとられるような感覚だっただろう、とのこと。

 なるほど、大好きな父と故郷の川辺で釣竿を並べて史を談じ合った頃を思い浮かべ、穏やかに進んでいったのかもしれない。彼の絶筆となった宝卿公の伝記は、そんな気にさせる優しさに満ちている。

 

 さて、星台は午後6時に発見され、9時に身元が判明し、大森警察から清国公使館、留学生会館を経て宋教仁のもとへ連絡が入ったのは夜遅くだった。宋は夜も明けやらぬうちに、友人たちとともに大森へ駆けつける。寂しくぽつんと置かれた日本式の小さな棺の中に星台はいた。

星台の同郷人たちは横浜へ棺を買いにいき、宋教仁たちは神田区駿河台鈴木町十八番地の留学生会館へ行って郵便物を調べ、「絶命書」を発見する。

 留学生会館の前の道は、今は一方通行の狭い通りになっている。当時は電車通りだったようだから、もう少し広かったのだろうか。そこに数百名の留学生が詰めかけた。会館前に貼り出された「絶命書」を一人が読み上げると、一同は涙で顔を上げられなくなった。

 かくて二千名の留学生が、抗議の一斉帰国をする。

 

 陳星台がなぜ死んだのか。死後の影響というところから考えれば、清国留学生取締規則ないし『朝日新聞』の記事に抗議してのものだということになる。けれども本当のところは解らない。彼は以前から死を欲していた。宋教仁の言にもあるし、本人の作物からもほの見える。

 昔わたしは友人たちの前で、「朝日新聞が殺した!」と口走ったことがある。この言い方は必ずしも妥当ではないが、死に場所を探していた星台に『朝日』がそれを与えてしまったことは、厳然たる事実だ。

 そしてその死を契機として、秋瑾を含む大量の留学生が帰国したことも。

 『朝日新聞』の社史にはそんなことは少しも書いていないけれども。

 

 東新訳社のあとも、留学生会館のあとも、わたしの通常の散歩道だ。今日も歩いてきた。西小川町一ノ一。正確な場所がわからないので、その一角をぐるりと歩いた。小公園では近隣の学生や勤め人が多数お昼を食べていた。一隅に立つ千代田区の案内板には、その界隈に住んでいたとして西周や森鴎外の名はあったが、もちろん陳天華の「ち」の字もなかった。

 『猛回頭』で金光游戯観音を名乗っていた彼のために、口の中で観音経を唱えながら歩いたら、やりきれない思いがした。

お経の後は彼の遺句「大地沈淪幾百秋、烽煙滾滾血横流……」を口ずさんだ。単純な排満復仇のアジテーション詩。無粋だがほかの詩が伝わっていないのだからしかたない。

 

 御茶ノ水の駅前で母親大会の人たちが演説し、赤紙(召集令状)を配っていたので、一枚もらって帰った。この日はそういう日でもある。それもこれもつながっている。

日本の近代の歩みだ。

 

 

12月18日(土)

朝日新聞社の大佛次郎論壇賞受賞者のことばというのを読んで驚いた。受賞作を読んでいないでいうのもなんだが、あんまりだと思った。

明治憲法って何だ? 兆民先生が一読して「苦笑するのみ」だった、楊篤生が立憲の名で専制を飾るものだと断じた、そして清朝がその延命のために打ち出した憲法がほとんどその翻案ともいえるものだったという、明治憲法。楊篤生が日本人だったら、爆弾を投げつけているぞ。

現憲法とのつながりというのなら、明治憲法よりも自由民権期に数多うまれた私擬憲法をいうべきだろう。

何が「明治の『建国の父たち』」だ? 何が「この国のかたち」だ?

「憲法典によっては言い尽くされない、より基層にある政治社会の意味と制度を指すもの」などと難しいことをおっしゃるが、要するに「この国」って、それは国家のことだろう? 為政者の、お上の、統治者のことだろう?

そこに民はいるのか? そりゃいるだろう。いるだろうけど、それは孟子の域を出まい。たとえ民意を汲み取り民の安寧を図ったとしても、その民はあくまで被統治者だ。主権者としての民ではない。

 

ジャン・ジャックの『社会契約論』を読み、シトワイヤンが主権者の意味だと知った。そのとき、フランス大革命でのカミーユ・デムーランの有名なアジ演説の意味がわかって、身の内が震えた。

「武器をとれ、シトワイヤン!」

それは普通、「武器をとれ、市民諸君!」くらいに訳されていると思う。これが単なる市民ではなく主権者を意味するとしたら、それは

「武器をとれ、主権者ども!! 本来は主権者たる、しかし現状では主権を有していないところの主権者諸君、武器をとれ! 武器をとって主権を取り戻せ!」ということになる。

 

 

 などと書いていたら、NHKのニュースでまたぎょっとする。「坂の上の雲」だぁ? これも読んでいないで言うのはなんだけど、でも、日露戦争でしょ? あれは植民地争奪戦争だ。そんなものを称揚するのか? いいのか、それで?

 

 こんなふうに義憤の種を探して歩くようなことはしたくはないのだけれど。

 

 

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