千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年11月3日〜

 

13日 21日 23日 29日

 

11月3日(水)

 ああ労働の日々!

  ダテや酔狂じゃねえ、生きるのさ!

   エレファントカシマシ「達者であれよ」

 

土曜、日曜と半ば行き倒れのように眠りこけてしまい、公園に行けなかったので、今日は何とか行ってきた。クチナシが一輪、大きなつぼみのままでしおれて黄色くなっていた。かわいそうだが、やはり今さくべきではない。

そして午後は、やっぱり行き倒れ。老いたか?

 

さる人から貴重な示唆をいただいて、清末陽明学に興味をもった。楊篤生が追われる身となって改名するにあたり、守仁という名を選んだほどだから、以前から気になってはいた。けれどもそもそも陽明学が解らないので、論文を読んでも出てくる単語が解らない。そこで主に島田虔次先生に私淑して、朱子学からぼちぼち始めていたけれど、なかなかはかばかしくない。そこへ改めて火をかき立ててもらったわけで、ありがたいことだ。

 陽明学は宋遯初君も熱心に研究していたはず。と思って久しぶりに『宋教仁の日記』を手にとった。この本は時間に余裕のある時しか手を触れてはいけない。たちまち、あっちひっくり返し、こっちひっくり返しが始まってしまうから。

 真摯に思い悩む若い人の日記はおもしろいに決まっているが、彼のは特におもしろいのではないか。あまりに生真面目で、ほほ笑ましいのを通り越して痛ましさすら覚える。それで数年前に惚れかけて、思いとどまったことがある。

宋教仁というと悪し様に言われた時代も長い。孫逸仙派には、彼が日本で学んだのは権謀術数だけだと言われたり、宮崎寅蔵までが「一人宋教仁君が……何か皮肉な策を廻らしてゐた」などと書いている。

けれども日記から受ける印象は全然ちがう。恋愛問題や、ストーカーと化した友人との関係やでぐじゃぐじゃ悩み、生活の時間割を作って自らを律し(なかなか守れないけれど)、旺盛に本を読み、古今東西の名言を書き抜いて自戒とし、もちろん人と頻繁に会ったり連絡とったり執筆したりという活動もして。そういう中で、神経衰弱になって脳病院に通院したり入院するような羽目にもなるわけだ。

 

 当時の早稲田大学清国留学生部では、浮田和民や高田早苗らがかなり反動的な教育をしていたはずだ(中国人には専制政体こそがふさわしいというような)。けれども留学生たちは図書館で勝手にルソーや何かを読んで、革命思想を紡いでいた。

 留学生のことは、やはり気になる。彼らが日本で何を読んでいたのか。

 遯初君だって、書店で日本人の著になる陽明学の本を見つければ買っているし。

 

 

11月13日(土)

 神田川の上空をゆりかもめが飛ぶ季節なのに、小石川橋のたもとで木瓜がまた花をつけてしまった。さすがに寒そうだ。

 

 今日は夫が起きられたので、一緒に公園へ。紅葉は始まったばかり。クチナシが一輪咲いていて、オオカマキリがとまっていた。

 

 楊篤生が生まれた同治壬申十月は、陽暦に換算すると1872年の11月1日から30日にあたる。すなわち今はお誕生月間。

 あまり幸福な人ではなかったが、歴史上の役割は大きかったと思っている。ここ20年ほど研究者がいないようなのが解せない。

 

 

11月21日(日)

 秋を撮りに公園に行ったのに、モミジもイチョウも青々としていた。ユリノキやプラタナスは葉を落としているが、この人たちは葉が茶色くなってしまうので、失礼ながらいまひとつだ。きれいなのは赤くなり始めたサクラだった。そういえば、毎年電車花見を楽しむ市ヶ谷辺りの並木も、今とても美しい。

 ということで、サザンカやツバキの花ばかりを撮って帰った。

 

 

11月23日(火)

 母親大人膝下

 (陰暦)四月末にパリから出した手紙はもう受け取られたことと思います。

 五月三日にロンドンに着き、一カ月。ロンドンの城北に住んでいます。ここ数カ月、公務がたいへん忙しくて手紙を書けませんでした。家からもまだ手紙が来ませんが、お母さんはいつ湖南に帰られたのでしょうか? 十弟(殿麟)は一緒だったのでしょうか? いろいろと気にかかっています。

 私はロンドンで、身体はとても健康です。ただ、ロンドンは人家が多くて空気が悪く、毎日必ず公園を一時間散歩して、それではじめて快適になるくらいで、衛生はあまりよくありません。幸い私は身体が丈夫です。騒々しくほこりっぽいのには閉口していますが。

 英国に来てからは毎日六時過ぎまで働いていて、上海の新聞社に較べればいささか楽です。けれども勉強する暇がないので、それが悩みです。私ははじめ英国へ行ったら英語の勉強に励むつもりでした。けれども現状では、なかなか思うようになりません。

 英国には中国の学生は二、三百人いますが、ほとんどが中学校かその予備で、専門学校や大学で学ぶ者は三、四割に過ぎず、その程度もまちまちです。勉強するのは難しいものです。

 英国は欧州の立憲国で、その強盛なことは現在の地球で第一位にあります。その人民の生活程度を見ると、我が国の人民とは非常な懸隔があります。汽車や鉄道は驚くほど発達し、東洋の及ぶところではありません。その人民は落ちついていて実利を好み、風気はもとより異なっています。惜しむらくは英語が未熟なので、その奥深いところを窺い知ることができません。

 お兄さん(コ鄰)からは最近便りがありますか? 北京ではどんな具合なのでしょうか。とても気にかかっています。

 まずはそんなところです。

 どうぞお変わりなく過ごされますように。

      息子守仁 謹んで申しあげます。

 

 なお、きれいな絵はがきを十数枚贈りますので、どうぞお納め下さい。旅行の土産です。

                           七月十六日

 

 

 陽暦1908年8月12日付、楊篤生が母親に送った手紙。ざっと訳したのであまり厳密ではない。

 母親宛は気楽でいい。孝子としての型を崩さず、元気です、心配しないでください、ばかりだから。

 これが妻子宛だとこうはいかない。子どもたちへは勉強しろ一辺倒だし、妻へはねちねち細かい指示だの、苦情だの、嘆きも入る。恋文としか読めないものもある。

 

 

11月29日(月)

 補足。

 湖南に帰ったか、云々は、楊毓麟は渡英前に家族を上海に呼んで数日ともに暮らしていたから、彼らに見送られて洋行の途についたのだろう。

 弟を十弟と呼ぶのは、同族の同世代での年齢順。同様にコ鄰のことは「二哥」と呼ぶ。なお妻を四少奶(=息子の妻)と呼んでいるものがあるが、毓麟が「四」ということなのだろうか。どうも中国の家族制度はよく分からない。

 

兄のコ鄰は北京にいるとあるが、立憲派として活動していたものと思われる。革命派の毓麟とは没交渉なのかと思ったが、そうでもないらしく、毓麟は渡英の際に兄から頭痛薬を持たされているし、その後も文通している。

 

ロンドンの欧洲留学生監督署に落ちつく前にパリに行ったことがうかがえるが、そこで一行を待っていたのは、留学生たちによる反対運動だった。監督は学生たちを慰撫しようとしたらしいが、成功したとも思えない。この監督は翌年には留学生とのいざこざが原因で辞職している。楊毓麟は後任に推されたが、固辞してスコットランドへ移り、留学生活に入ったわけだ。

 パリでは李石曽らのアナキストたちが『新世紀』を創刊して活動していた。この時点では楊は彼らと接触したのかしないのか。呉稚暉くらいとは面識もありそうだが、どうだったのだろう。この時点での楊のアナキズムに対する見方は、「胡散臭い妙な思想」といったところだろうか。興味を持ってはいるが、あまり好意的ではなさそうだ。

 

 

 

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