千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年10月6日〜

 

10日 23日 26日

 

10月6日(水)

 歩かないと心身(特に心)の健康によくない。というより、歩かないと鬱屈して頭が変になる。だから昨日の昼も豪雨の中を散歩に出かけ、二回も転びそうになった。それでも歩く。うろ覚えの新曲を歌いながら。うろ覚えだとエンドレスになるから、かえって好都合。「達者であーれよー!」

 そして今日は散歩日和。と思ったらごたごたがあって、昼休みの散歩どころか、お弁当食べたのが十五時近かった。こんなことは滅多にないのだが。

 明日は歩く。時速六キロで、時間いっぱい歩く。久しぶりに湯島神社まで行ってみようか。そしてかつて『タモリ倶楽部』で宮本が立った男坂の上で、「宮本ここより望む」をするのさ。

 歩くのはいいぜ!

 

 生まれ年年表に褚民誼を加えようと思ったが、字が出ないので面倒くさくなってやめた。

 前にも書いたが、清末のアナキストには近寄りたくなかった。なんとなく印象に曇りがあっったからだ。ろくに知りもせずに臆見をもっていたわけだが、食わず嫌いを解消すべく食い始めたところ、やっぱりあまり気持ちよくはないようだ。

 彼らのアナキストとしての言説を読むのは快い。電車の中で読んでいて、ついついにやにやしてしまったり、拳をぐっと握りしめてしまうなどしている。

 けれども、どうも皆さん、後がいけない。

 満人高官のスパイになり、その後は袁世凱の帝政を推進したり。

 そして褚民誼。この褚民誼とあの褚民誼とは、同じ人なのだろうか。パリのアナキストグループの一員として論陣を張っていた、キラキラと自由を語っていた褚民誼と、汪兆銘とともに親日を唱えて戦後に漢奸として処刑された褚民誼と。

 

 わからない。わたしはまだ何も知らない。楊度の例もある。楊度は清末は立憲派で、その後は袁世凱の帝政運動の推進者となり、晩年には共産党の秘密党員になっていた。その経歴から「政治変色龍(カメレオン)」などと言う人もいるけれど、彼はどうやら時流に合わせてうまく立ち回ろうとしたのではなく、その時々で中国にとって最もよい道を、彼なりに考えた結果だったらしい。彼が亡くなったのは1931年。その時期に共産党員になるのがどういうことか。しかも紹介者は周恩来だ。毛沢東なら同郷のよしみということもあり得るが、周恩来なら関係ない。人物を見たのだろう。周は後々まで楊度の名誉については気を配っていたようだし。

 だから褚民誼のこともわからないのだけれど。

わからないのだけれど。

 

 

10月10日(日)

 十月十日、双十節。すなわち、辛亥革命勃発から今日で93年。

 

 台風一過のぴかぴか晴れを期待していたのだが、朝から曇天。路面も洗濯物も濡れたままで、なかなか乾かなかった。

 辛亥革命も、革命勃発、清朝崩壊、めでたしめでたし、とは全然ならなかった。

 それでも光復の知らせに楊篤生の英霊は怒潮となって東返したはずだ。楊コ鄰が言っているのだから確かだ。

 

 

10月23日(土)

 昨日は体調不良でどうにも起きられず、欠勤して眠りこけた。

 今日はむくっと起きて公園へ。くちなしが咲いていた。つぼみも二、三。今、何月だ? 同じ木で実が黄色く色づき始めている。

 今週は東京ドーム近くの小石川橋のたもとで木瓜の花も見た。

 気候が異常で植物も何が何だかわからなくなっているのか。

 

 例年になくはっきりとした秋霖と、強いままで何度も来る台風と。そのうえ今日は夕方に強い地震が。

 なにがどうなっているのか。

 

 

10月26日(火)

一昨日の朝日新聞の書評欄に『フィリピン歴史研究と植民地言説』という論文集が出ていた。それによると、ホセ・リサールの再評価がわたしの思っているものと違ってきているようだ。というより、わたしのリサール像は、USAのプロパガンダにだまされた「進歩的文化人」からもたらされたものなのかもしれないと。

 

 わたしがフィリピン独立運動について見ていたのは1984年、大学2年のときだ。井村文化事業社から出ていた一連のフィリピン関係の文献や、日本の研究者の論文などから、わたしなりのリサール像を得たつもりだった。もちろんリサール自身の作になる小説二篇も読んでいる。そしてリサールの「暴力を以って暴力に取って代わっても何にもならない」ということばにうなずきながらも、一方でカティプナンの綱領に感銘を受け、リサールはカティプナンの先駆、捨て石にすぎないのではないかと思った。やっぱり暴力革命でなければ力にならないだろうと。リサールは甘い、所詮はエリート知識人ではないかと。下層出身のカティプナンの連中のほうが上だろうと。

 

 いまから見ると、子どもっぽい単純さが恥ずかしい。と同時に、いろいろなことを思う。

 リサールの小説を読んだわたしが陳星台と出会うのは、これはもう当然のことだろう。そしてその星台が、絶命書の中でフィリピンの例を挙げて警告している。また、18歳のエミリオ・ハシントが起草したカティプナン綱領の涙の出るような美しさは、太平天国や甲午農民戦争など、多くの民衆叛乱に見られるものだ。さらに、「暴力を以って暴力にかえる=以暴易暴」といえば、はるか昔、伯夷叔斉が武王を諌めたことばではないか。フィリピンは儒教文化圏からは出るだろうし、リサールの教養はスペインから得たものではないのか? そしてさらに、李石曽たち清末アナキストの、「革命の手段としては直接行動(ゼネスト)や武力闘争は間接的で、教育や宣伝こそが直接的手段だ」という考え方まで、思い浮かぶ。

 

というような脱線は措いておくとしても、フィリピン独立革命については、まだまだ興味は尽きないとわかった。けれども、読むべき本が立て込んでいる現状では、残念ながら手を出すことは到底できないと思う。

 

 

 

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