千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年7月5日〜

 

6日 7日

 

月5日(月)

 孟子の貴民説といわれるものがある。「民をたっとしとなし、社稷これに次ぎ、君を軽しとなす」というもので、黄興が明徳学堂の教員だったとき、これをもって主権在民を説いたという。これを彼の民主主義に対する認識の浅さ、勘違いを示すものだと決めつける前に、孟子の原文をよく見てみよう。

「孟子曰、民為貴、社稷次之、君為軽。是故得乎丘民而為天子、得乎天子為諸侯、得乎諸侯為大夫。諸侯危社稷、則変置。犠牲既成、粢盛既求A祭祀以時、然而旱乾水溢、則変置社稷」(尽心下。岩波文庫版によるが、句読点は適宜変えた)

「民をたっとしとする。社稷はそれに次ぐ。君を軽しとする。」社は土地神、稷は穀物神で、要するに護国の神であり、国家と同義に使われもする。民が最も大事で、次に大事なのが社稷であり、それらに比せば君などというものは軽いものである。よく引かれるのはここまでだが、これだけでは意味が通じないので続きを見る。

「このゆえに、民を得て天子となり、天子を得て諸侯となり、諸侯を得て大夫となる。」民の支持か歓心かわからぬが、ともかく民に受け入れられてはじめて天子たりうる。そして天子の意を得た者が諸侯として封じられ、諸侯の意にかなう者が大夫として取り立てられる。となると、諸侯が大夫を、天子が諸侯を任命するように、民が天子を任命するように見える。黄興が言いたかったのは、冒頭ではなくむしろこの一節なのだろう。

だがしかし、これはやはり主権在民とは全く違う。なるほど君は民の支持を得なければ、叛乱を起こされたり逃散されるなどして、位を保つことができない。しかし、だからといって民が選挙などで君を選ぶわけではないし、ましてや民の中から君が出るわけでもない。民は鍵を握るだけで、政治に直接参与するわけでも、政権に就くわけでもない。意見を述べる機会が与えられることがあったとしても、それはあくまで参考とされるに過ぎない。畢竟、民には叛乱か逃散しかないのである。

さらにその後、孟子は続ける。「諸侯が社稷を危うくさせるなら、諸侯を変える。」暴君や暗君は排斥して別の人物を立てる。ただし、同じ孟子の万章下篇から推すと、新君は君の同族から選ばれるようだ。左伝でよく見られるのは、君の兄弟や従兄弟、伯叔父であり、時にはとんでもない遠縁の者が立てられることもあるが、それでも公族であることにはかわりはない。易姓革命ではないのである。

そして最後に、「祭祀を完璧に行っても旱害や水害が起きるようなら、社稷(神)がよくないのだから、社稷を取りかえて民を守るべきである」と。

以上のように、これは民を大事にする善政を説くものであり、民は安んぜられる対象でしかない。民こそが政治の主体となる主権在民とは、対極をなすといってもいい。

残念ながら。

 

 

月6日(火)

 朝のニュースで平泉かどこかの蓮の花を見て、慌てて昼に不忍池へ。通りの向こうからみたとき赤いものが見えたのだが、行ってみたらまだつぼみばかりだった。

 つぼみでもきれい。本当に清らかな美しさ。

ここで離騒の一節でも口ずさめればと思ったけれど、無教養の悲しさで、花と葉とどちらが衣やら裳やら。

 来週、また行く。そのときにはちゃんと憶えていく。

 

 製荷以為衣兮 集芙蓉以為裳

 菱と蓮の葉を裁って以て衣にし、蓮の花を集めて以て裳にする

 

 泥中から生じて清らかに咲く仏様の花として以前から好きだったが、湖南の別称が芙蓉国だと知ってからは、なお好きになった。

 いつか行ってみたい。洞庭湖の芙蓉を見てみたい。

 

 

月7日(水)

戦争の始まった日。否。天災ではないのだから、「始まった」ではなく「始めた」というべきか。

 

鬼神に恋するのはよいことではないし、第一そういう姿勢では先方に失礼だ。ということで、浮ついた心を鎮めて、きちんと楊篤生と向き合ってみようと思った。それで、無謀にも彼の最後の論文「論道徳」の翻訳を始めた。

覚悟はしていたが、難しい。過渡期の文章なので、中国語なのか漢文なのか、辞書は中日辞典か漢和辞典か。中日辞典を基本にやっているが、漢和辞典でなければ出ていない語も少なくない。篤生としては平易な啓蒙文のつもりなのだろうが、とにかくわたしの水準がお話にならない程度なので、難儀している。

中国語は学生時代に習ったが、論文を読めればいいという半端な了見だったから、実際その程度の力しかない。大意は概ねとれるものの、きちんと訳すとなるとはなはだ心もとない。漢文にいたっては高校で習っただけだし、古典の教養も決定的に欠けている。

なにしろ彼は駢文が得意だったという人だ。ことばの一々に典拠がありそうで恐い。辞書に出ている訳では意味が通じないので保留した句が、ほかの箇所を調べるために繰っていた『孟子』にそっくり出ていて、それで初めてその句の背景にある意味合いがわかったり。

この調子ではどこまでやれるかわからないが、ともかく行けるところまで行ってみる。

努力するだけの価値のある文章だから。

どういうわけかここ20年ほど研究者がいないようで、忘れられた感があるのが残念だ。

こんなに優れた人なのに。

 

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