千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年6月2日〜

 

3日 7日 19日 26日

 

月2日(水)

清代の身分制度は概ね以下のようになっている。天子、皇族、貴族(満蒙)、官僚、そして民。民は士農工商に分かれ、さらにその下に少数の被差別民がいる。士はいわゆる紳士で、生員以上、つまり科挙体制下の特権階級をいうが、科挙によらず捐納(寄付金)や軍功などによって身分を得た者も含まれる。紳士が就職して官僚となり、官僚は退職すると紳士になる。紳士は四民の頭であり、官と民とをつなぐもの、仲介者である。中央集権専制国家である清において、実質的に地方を支配していたのは、実は官僚ではなくて紳士だったらしい。

 

科挙ができたのは隋の時だが、紳士の淵源は上古にまで溯れる。紳とは士大夫が身につける幅広の帯のことだ。『礼記』によれば、肋骨と骨盤との間の骨のない部分に締めるものだという。『論語』に子張が孔子の教えを忘れぬように紳に書きつけたという条があるが、その紳がこれである。これに笏をはさんだために、そういう身分の人のことを縉紳(しんしん)などといった(縉=さしはさむ)。

 

もちろん清末の紳士は春秋期の士大夫と同じではない。しかし彼らの頭にあるのは論語であり左伝であり、書経、易経などなどを基礎とする経学の世界だ。それは原始儒教ではなく、孟子や宋明理学を経たものとなっている。そして彼らは西洋の新知識と出合ったとき、自らの知識をてことしてこれを理解しようとした。黄興が主権在民を孟子の「貴民説」で説明したように。それを誤解と笑うには、孟子を知らねばならない。

 

そう思って古典をかじり、左伝の中から「国人」をつつきまわしてみた。まだおぼろげな像が浮かんできただけではあるが、それでも少しだけ志士たちに近づけた気がする。例えば英国の議会制度を紹介する文章で、下院議員のことを「紳士」と称し、議院を周代の「朝」することだという、その「ずれ」がどんなものなのか、どこが通じてどこが決定的に違うのか、少しはわかる気がする。

 

 

月3日(木) 

紳士というのは封建社会での身分制度による確固としたもので、楊毓麟、楊昌済、楊度、黄興、宋教仁、劉揆一、禹之謨(日清戦争時の功による)、楊徳麟(捐納による)は紳士で、陳天華、、章士サ、呉樾、鄒容などは平民となる。章太炎のような大学者でも、科挙を受けていない以上、平民なのだ。

紳士というのは身分であって、職業や貧富は関係ない。また、その身分は世襲ではなく本人の才能による。

鄒容の父親は大商人で、富裕であっても身分上は「四民の末(士農工商の最下位)」に過ぎないので、息子を紳士にしようとした(はねっ返りの鄒容は試験場を飛び出して留学してしまったが)。陳天華の父親は生員であって下級の紳士だが、終生寒貧だった。禹之謨は祖父が紳から商に転じ、父は商、之謨自身は商人でありながら紳の身分を得ている。

しかし一般的には紳になるのは紳の子弟が多く、富裕な地主や官僚の家に生まれた者が多い。労働力であるべき子どもを、多年にわたって学業に専念させることができる層は、おのずと限られているからである。

封建制下の身分であるから、紳士になると服装からして平民とは違う。また、税制や刑法などの面で優遇される特権を得るだけでなく、身近な地域社会においても、例えば道を歩けば頭を下げられるし、寄り合いなどでは場に老人がいても上座に座らされる。そういった様々な特権があるから、地主の子弟たちはたとえ官途に就く気がなくとも、挙業(科挙の受験勉強)に励むのだ。黄興の家は代々満洲王朝に仕えるなというのが家訓だが、黄興は生員になっている。宋教仁の家も読書人の家柄だが、仕官した人はあまりいないらしい。

 

 

月7日(月)

清末、少なくとも変法期くらいまで、議会制を求める人たちの頭にあったのは、民情を上に伝え君民融和をはかるための、諮問機関のようなものだったらしい。だとしたらそれは、周代に諸侯が国人を朝して意見を聴いたのと同じようなものではないか。

辛亥期になってからも、これを持ち出して議会制度を説明したり、中国には民主主義の伝統があるなどと称した人たちもいたようだ。

けれども、あれは民主主義とはほど遠いものだ。国人というのはおそらく、多数の武装した族員を背後にもつ一族の代表者である。だから国家の大事には君や卿は彼らを朝して意見を聴くし、極端な場合は国人たちが国君の首のすげ替えにも関わるが、しかし国人が政治を執るわけではない。これを議会制民主主義ということは、到底できまい。

 

 

月19日(土)

左の腕と肩が痛いのは、一昨日のライヴのせいだ。なにかたいへんな運動をしたらしい。そのライヴからひとつだけ触れる。

「星くずの中のジパング」が長い長い曲に化けていた。「義によって死んだヒーロー」と、「強いあこがれの場所」と、わたしの最も好きな二句を何度も繰り返してくれた。

日本史に疎いわたしは、「義によって死んだヒーロー」というと譚嗣同しか思い浮かばぬが、宮本は誰を念頭においているのだろう。

「強いあこがれの場所」。志士たちは現状に異を唱え、あるべき、あるはずの姿を現出させるべく奮闘した。そういう彼らを思って泣けてしまった。

 

 

月26日(土)

どうもこの国には、国賦人権、国家や社会への貢献度によって人権に軽重があると思っている政治家が少なくないようなので、ここはひとつ科挙を復活させてはどうかと考えた。もちろん科挙で政治家を決めるのではなく、これに及第せねば選挙に立候補できないようにするのだ。問題の内容は四書五経ではなく、社会契約論を主とし、さらに世界人権宣言や国際人権規約なども加えるとよいだろう。これらを読み込んで民主主義や基本的人権について理解しなければならない。科挙と違って落とすのが目的ではなく、理解度を見るためのものだから、問題は難しくしなくてよい。民主主義の理論と人権についてのまっとうな感覚とをもっていれば、合格できる程度のものとする。

そうすれば、議員になりたいと思う者は、たとえ方便であっても勉強するだろう。

 

などと考えていたら、清末に似たような案を見つけた。もちろん意図するところはだいぶ違うが、形としては似ていなくもない。

日清戦争の敗北で洋務運動が破綻した後、様々な人が西洋の諸制度を横目に見ながら改革案を練っていた。その中にあった、何啓と胡礼垣という人物による地方議会の制度だ。

曰く、県議会議員は秀才から選び、府議会議員は挙人から、省議会議員は進士から、それぞれ選挙によって選ぶ。投票する権利があるのは、二十歳以上の男子で、心身に障害がなく、読書明理の者とする。

被選挙権は紳士に限るというのには苦笑せざるを得ないが、選挙権の広さは注目に値する。これは普選に近いように見える。もっとも、「読書明理者」というのが曲者だ。当時の男子の識字率は10〜20%だったといわれる。女子も含めた人口比でいうと、5〜10%である。それでも日本の帝国議会の第一回の有権者は1.1%、1920年の第14回でも5.5%にすぎなかったことを考えると、少ないとはいえない(日本の男子の普通選挙制は1925年から。治安維持法と抱き合わせだった)。もちろん、紳士(秀才以上)に限ったり、納税額や財産で限ったりするよりは、はるかに広い。

とはいえ、これが実現したわけではない。日本の民権期に数多うまれた私擬憲法のようなものか。

 

 

 

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