千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年5月4日〜

 

16日 21日 26日

 

月4日(火)

 強風が吹き荒れた日。おもしろそうなので、昼前から二人で風を楽しみに公園へ。雑木林は若い緑の濃い、いちばんよい季節だ。

 帰って遅い昼食をとった後は、夕方まで眠りこけた。公園へ行くと気持ちがよいが、たいてい後は眠ってしまう。浴びた気を吸収する時間が要るのだろうか。

 

 

 昨日だったか、朝のTVでアジア横断道路の話をしていた。東京からイスタンブールまでを結ぶ道路で、1950年代に国連かどこかで構想されたものだそうだ。

 それを聞いて驚いた。これは譚嗣同の構想じゃないか!

 彼は『仁学』で、似たような構想を述べている。シベリア鉄道の向こうを張った、ユーラシア大陸横断鉄道。朝鮮から中国、アフガニスタン、ペルシア、小アジアを通ってバルカン半島に至る万国公路だ。『仁学』は1896年には完成していたらしいから、60年も早い。道路ではなく鉄道なのは、もちろん自動車なんかなかったから。

……道路って、それはすなわち、シルクロードではないか?

 

 

 ジャン・ジャックは言った。親が子を支配するについての前提は、次の二つ。子どもが無力で保護を必要とすること。親が故意に子どもの不利益を図ることがないこと、つまり子が全権を委ねてもそれを悪用されないこと。

 だから子が力をつけて保護を必要としなくなれば、親子関係は解消される。それ以後も続けるのなら、それは双方の同意に基く任意の約束による。

 また、親の存在が子にとって不利益な場合も、親子関係は解消されるべきである。

 

 陳筱芳氏によれば、春秋時代においては父の慈と子の孝とは対になるものであった。父は子を慈しみ、社会に適応できるよう教え諭す。その恩があるから、子は成人した後、老いて力を失った父をないがしろにせず、孝を尽くすのだ。父の慈は禽獣が仔をなめて育てるに似た自然な情愛によるもので、子の孝もまた幼児が親を慕うごく自然なものに由来する。慈よりも孝を重んじる傾向は春秋期にも見られるが、それでもまだ、慈と孝とは一組になっていた。

 それが変わってきたのは戦国期、孟子の頃からである。慈と孝とが切り離され、孝が重んじられる反面、慈については触れられなくなっていく。専制王朝たる秦漢帝国以降その傾向は強まり、たとえ親が慈でなくても子は孝でなければならなくなる。そしてもっと後には、父と慈との結びつきが忘れられた結果か、父は厳と結合するようにさえなる。慈父から厳父へ。

 

 譚嗣同は五常を否定する。父子、君臣、夫婦、兄弟、朋友の五つのうち、彼が認めるのは朋友だけである。朋友は平等で自由で結ぶのも解消するのも任意の関係であるから。だから、父子も君臣も夫婦も兄弟も、すべて朋友としての関係であるべきだと、彼は言う。

 

 楊篤生は家庭内専制を攻撃していた。

 

以上、J.J.ルソー『社会契約論』、陳筱芳『春秋婚姻礼俗與社会倫理』、譚嗣同『仁学』、楊毓麟「論道徳」によったが、なにしろこのザル頭で読みとったものなので、本人が見たらそんなことは言っていない!と言うかもしれない。だからもちろん責は全てわたしにある。

 

 どうも家庭内専制というのが、わたしの重要な問題らしい。みなが競って奴隷頭になりたがる、奴隷天国そのものであるこの国の、奴性の基礎を成すのが家庭内専制らしいから。

 わたし自身の身内に深く巣くっている奴性と戦うために、家庭内専制については考えていかねばならないようだ。

 

 

月16日(日

 やはり譚嗣同だ。いずれそこに行き着くのだろう。

 彼こそ「義によって死んだヒーロー」だ。英雄が歴史を作るとは毫も思わないが、それでも多大な影響力をもった人というのはいて、彼もその一人だ。湖南の革命烈士の第一号として、その影響はおそらく毛沢東まで続いている。

 けれどもわたしが見たいのは、その死に方ではなく、あくまで彼の思想だ。

 昔、譚嗣同、唐才常、楊毓麟、陳天華、宋教仁という線を漠然と描いていた。今はっきりと思うのは、民族資本家の禹之謨、啓蒙宣伝家の陳天華、そして政治家宋教仁が楊毓麟『新湖南』から生まれた三つ子の兄弟であり、楊毓麟からは『仁学』へ溯れるということだ。禹之謨はより早くから活動していたが、革命理論化したのは楊による。あるいは、禹も楊もともに譚から生まれた子どもだとも言えるかもしれない。

だから『仁学』は重要だ。しかしこれは、あまりに雑多な内容が詰め込まれているし、なによりこちらの読む力が決定的に不足しているため、まだまだ手の届かないところにある。けれども必ず精読したい。

 

 

月21日(金)

四川保路運動関係の史料に、「衆の怒りは犯し難い」という一節を見つけた。孫引きで未確認だが、おそらく檄文だろう。調子よく気持ちのいい文章だ。「天下の興亡、匹夫も責あり。身命を犠牲にするは国民の尽くすべき義務、政治に参預するは国民の享ける権利。権奸の圧力大といえども、匹夫の志気は奪い難し。賊臣羽翼多しといえども、衆人の公怒は犯し難し」

「衆の怒りは犯し難い」というのは『左伝』では何度も見かける言い回しで、暴君が叛乱にあったときに吐く諦めのことばだ。春秋期においては国人勢力は強く、その支持を得られなければ諸侯も卿(大臣)も位を保つことはできない。けれども国人は政治に対して影響力をもつだけで、直接参与することはなかった。それはあくまで民主政治ではなく貴族政治の域を出なかった。

けれども、この同じことばが二十世紀になって発せられたときには、事態は異なる。

利権回収運動(外国の所有する鉄道や鉱山の利権を取り戻そうという運動)は、清朝を倒すことを目論むものではなく、純然たる愛国運動として始まった。それは知識人や商人のみならず下層の民衆までが参加する、一大大衆運動となった。その過程で、「洋人の朝廷」と化していた清朝の売国奴ぶりが誰の目にも明らかになり、清廷の権威の失墜とともに、憲政を求める声が高まっていった。それに応えて清朝が打ち出した立憲のための新内閣は、その多数を満蒙貴族が占めるという全く形ばかりのもの(「皇族内閣」と呼ばれる)だった。これにより、穏健な立憲派の清朝に対する失望は絶望に変わった。

そういう空気が満ちていたところに武昌起義が起きたため、革命の火は瞬く間に各地に広がり、遂に清朝を倒すことになる。

まさに衆の怒りの犯し難いこと、春秋期と同じだったわけだが、しかしここには決定的な違いがある。それは、宣統帝ひとりを退位させ清朝を滅亡させただけではなく、数千年来続いた「天子」というものの存在を断ってしまったことだ。以来いままで、中国には天子も皇帝も現れていないし、最高権力者の地位が世襲されてもいない。

 

 

月26日(水)

陰暦四月八日。潅仏会。おそらく人類史上最も高い魂の生まれた日だ。ただ残念なことに、あまりに高すぎて未だに誰も理解できないのかもしれない。それでも釈尊は説法をした。なぜ彼が説法をしたのかは、わたしの二十年来の疑問だ。

孔子も高く、まさに顔淵の言うとおり「これを仰げばいよいよ高く……」なのだと思うが、それでも少なくとも顔子はついていけていたのだろう。その顔子の早世後、孔子の孤独はいかばかりだったか。

 天上天下唯我独尊。わたしにとって宇宙で最も大事なのはこのわたしだ。ひとの骨折よりも自分のかすり傷の方が痛い。同様に誰にとってもその人自身が最も大切で、誰にとっても要らない人などひとりもいない。自分にとっては自分はひとりしかいないのだから、誰がなんと言おうと、このわたしは取換のきかない最も重要な存在なのだ。そういうたったひとりの大切な存在どうしとして、お互いを尊重しあう。自分を大切にすると同時に、相手を大事にする。自分を侵させないと同時に、相手をも侵さない。

 そうであるはずだ。

 

 

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