千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年4月1日〜

 

4日 5日 10日 11日 15日 18日 20日 21日 29日

 

月1日(木)

 カスタのライヴの後、珍しくBBSが荒れていて、こっちまで心がかき乱されてしまった。おかげで、まだ一週間も経っていないライヴが、遠い遠い過去に思える。これは残念。寂しく悲しい。

 

そんなことよりエレカシ新譜。これを聴いて蘇った!

 明日から恒例の小旅行で、時間がないので、ちょっとだけ。

 宮本って人は、いつもいつも予想の外にいる。どこまで行くんだ? 彼は。

 ライヴが楽しみだ。これはすごい。

 既に口ずさんでいる、パワー・イン・ザ・ワールド! ほかの曲も、一見とっつきが悪いが、なんの、2回目からもう、キューキュー泣かせてもらっている。かっこいいよ〜。

 唯一残念なのは歴史。音楽的には文句なしにかっこいいのに。白眉と言ってもいいのに。しかし詞の中味には賛同しかねる。どうも宮本は文学観が合わない。

 日本文学音痴のわたしが言うことではないけれど。

 

 

月4日(日)

 恒例の小旅行。毎年同じ四月の第一金曜日に、同じ宿に泊まるのだけれど、桜が咲いていたのは初めてだと思う。

 去年、雪に降られたのも異常だったのだろうが、今年のも異常らしい。梅も一緒に咲いていて、香を放っていた。

 例年、車窓から懐かしい桑畑をながめるのだが、今年は花ばかり見ていた。日本の里は、至るところに桜があると、改めて思った。白いの赤いの、一本きりでも、たくさんあっても、みんなきれいだ。

 

 

月5日(月

 宋教仁生誕122年。

 光緒八年二月十八日というのが、1882年4月5日にあたるそうだ。湖南省桃源県上坊村湘冲。今は遯初君の号をとって漁父村になっている。いつ変わったのか知らないが、不当に誹謗された時期も長かっただけに、こんなふうに顕彰されているのはうれしい。松本英紀氏によれば、生家には未だに宋家の一族の人たちが住んでいるとか。

 なお、黄興さんの生地の善化県龍喜郷も今は長沙県黄興鎮になっている。星台先生にはそういう話はないと思うが、新化県に天華広場というのがあるそうな。

 さすがに楊篤生には何もないだろうけれども、楊昌済先生の家は「楊開慧同志生家」として観光名所になっているらしい。

 

 今年の桜は花期が長いが、それでもだいぶ葉が目立ってきた。お堀にはたくさんボートが出ていた。みんな二人で乗っているのに、一人きりの舟もあった。

ちょっと気になった。

 

 

月10日(土)

桜もだいぶ散った。今は山吹やレンギョウがきれいだ。

年年歳歳花相似たり

歳歳年年人同じからず

というけれど、わたしはむしろ長吉さまの「樹を植えるなかれ(莫種樹)」の心境だ。

樹を植えないでくれ。樹を植えると、悲しくてならないから。季節のめぐるのをいやでも知らされ、去年の秋も今年の秋も全く変わらぬ、いつまでたってもうだつの上がらぬ自分の境涯を思い知らされるから。

 

噂によると、いま全国各地で『渋江抽斎』が飛ぶように売れ、古書の価格が急騰しているらしい(ウソ)。

 

説経節には貴種流離譚が多い。それはたいてい、苦難時代の迫害者に対する凄惨な復讐で終わっている。それを語る演者が最下層民、賎民中の賎民であったことを考えると、空恐ろしい情念が感じられる。

その説経節である「さんせう大夫」を、エリート森鴎外が書くとどうなるか。みごとに毒抜き骨抜きされて、きれ〜いになってしまっている。

これが名作なのかどうかは文学音痴のわたしの知るところではないけれど、疑問なのは鴎外の執筆動機だ。

 

例えば滝沢馬琴は、水滸伝を下敷きに、自己の信じる勧善懲悪と儒教倫理とを盛り込んで『南総里見八犬伝』を書いた。

その良し悪しは一概にはいえないだろう。国情、民情の違いもある。悪い奴が懲らしめられ善人が酬いられれば、すっきりして気持ちがいいのも人情だ。ここで水滸伝と八犬伝との優劣を論じたり、日中の大衆文芸について比較する気もない。わたしが言いたいのは、是非、賛否はともかく、水滸伝を書き直すについて、馬琴にははっきりとした執筆動機があったらしいということだ。

 

鴎外先生はその辺どうだったのだろう。単純な祖述ではなく、あれだけ毒も骨も抜いているのだから、彼は「さんせう大夫」に対して「これではいかん!」という強い不満があって、なおかつ、話を捻じ曲げてでも世に訴えかけたい何かがあって、それで「山椒大夫」を書いたのだろう。その「何か」が知りたい。

 

 

月11日(日)

 エレカシ新譜の「イージー」に寂しくなり、「宮本には女はわからないんだね。男も女もなく人間なのに、『女』という別種の生き物がいると思ってるんだね」と言うと、夫は「だからお前には日本近代文学が読めないんだ」と。

 なるほど。

 それで思い出したが、高校のとき、国語の教科書で読んだ漱石「こころ」鴎外「舞姫」に、女の子たちはみな怒った。そりゃそうだろ。

 

 ところで、「舞姫」を講じた教師はわたしに強い印象を残している。鴎外や透谷、藤村など明治文壇のゴシップ的な話を、皮肉っぽく嘲るように話してくれたのだが、その急いたような苛立たしげな口調は、むしろ自嘲的なものを感じさせた。どうやら彼は明治文学に耽溺した文学青年崩れか、ひょっとしたら高校教師というのは世を忍ぶ仮の姿で、実体はもっと何か別のものか、あるいはそうなりたいと望んでいるか……などと、要らぬ想像をさせられた。

 ともかくその先生によれば、「本当はこんなきれい事ではなかったんで。本物のエリスは日本まで追っかけてきたんで。それを妹が『お兄様の将来のために』と金をやって追い返したんで。エリスもそういう金を受け取るような女だったんで」とのこと。

「先生過去に何かあったんですか?」と訊きたくなるような、憎々しげな口調だったと思う。妹のせりふは声色を使っていて、それが耳に残っている。ちなみにこの妹というのは、たぶん星新一の外祖母の小金井喜美子だ。

 

 鴎外といえば、シュニッツラーを日本に紹介したのは彼なんだよね。鴎外がシュニッツラーの何にひかれたのかは不明。単に医者だからってことはないだろう。何か感じるところがあったのだろうから、それなら鴎外も捨てたものではないかもしれない。

 

 いろいろ言ったけど、今度のアルバム『扉』は気に入っている。いい意味でポップだ。「傷だらけの夜明け」だけはさすがに気恥ずかしいが、あとはかっこいいよ。すばらしい。

そして問題の「歴史」は、実は最高にいい。早くライヴで聴きたい。

 

 

月15日(木)

市ヶ谷のお堀のキンクロハジロ二十余羽が帰らないので気になって見ている。帰りの電車からは見えないので、朝だけ。

昼休みに思い立って不忍池に行ってみたら、やはりここにもいた。重たそうな八重桜の下に、ざっと見たところで三十数羽か。冬のあいだ一緒に圧しあいへし合いしていたホシハジロ、オナガ、青首などは一羽もいなくて、カルガモが二組ほど交じっているだけ。がらんとして寂しい水面を乱すのは、赤や黒の巨大鯉ばかりだ。カルガモは留鳥だからいいとして、キンクロはどうしたのだろう。冬鳥のはずだけど、帰らなくていいのか。

こういう人たちが帰るのを一度見てみたい。誰か一人が決めるのだろうか。相談するのだろうか。それともみなで同時に「今日だ!」と思ってうなずき交わすのだろうか。市ヶ谷の人たちとは一緒に行くのだろうか。そういうこと、何も知らないんだ。

 

 

嫌いなものについて語るより、好きなものの話をするほうが、楽しいに決まっている。悪口で盛り上がるのは悪い癖だ。悪口好きの人間に育てられたからか、ついつい口をついて出るけれど、なんとかしたい。

 

好きなものについて語る人を見るのが好きだ。こちらは全く関心がないことでも、にこにこと語られると、うれしくなって聴いてしまう。誰かが何かを好きだという、その思い自体が好きだ。

だから、鴎外や馬琴を語る宮本が好きだ。「歴史」の主人公が鴎外でなく独歩なら、せめて荷風にしてくれたらと思わないでもないが、でも宮本が好きならいいや。「歴史」は名曲です。

好きといえば、孔子が子路や顔淵を呼ぶ「由や」「回や」ということばが好きだ。愛が感じられる。本当にかわいかったんだろうな。論語じゃなくて荘子だったと思うが、孔子が仕官を勧めようとして顔淵を呼ぶ件りがあった。呼ばれて顔淵が来る。それが原文では簡潔に「回来」となっていて、それがなぜかうれしい。「いらっしゃい」と言われて、「はい」と来た。それだけのことなのに、ああ、回が来たんだなあと思えて、招く仲尼、呼ばれてくる回の表情まで思い浮かべて、ひとりで喜んでいる。

この章自体は例によって回を使って孔子を批判するものなのだけど。

 

 

月18日(日)

昨日は午後から公園で長吉さまとデート。雑木林のベンチで読んできた。もみじの葉裏がきれいだった。

開放公園にはたくさんの人。二十歳くらいの青年と、小学校上がったかどうかくらいの男の子と、パピヨンと、三人でサッカーをしていた。青年の蹴った玉がパピヨンにまともに当たり、「ごめん!」と叫んでいたけれど、犬はピッとも鳴かなかった。

 

『少林サッカー』おもしろかった。劇場ならもっとすごいのだろうな。

 結構がしっかりしていて、あらまほしきところにきちんと収まり、少しも裏切らないから気持ちがいい。見ていられない場面もあったけど、それでも文句なしに楽しかった。

それが正しいんだよね。

 

 執筆意図なんて読めばわかると叱られた。ごもっとも。読んでもわからないなら、それは書き手が下手か、読み手の怠慢か。

 「信じて疑え」と内田義彦に教わった。筆者に全幅の信頼を寄せ、筆者が書くのに要したのと同じくらいの努力をはらって読め。変だと思うところがあっても、まさかあなたほどの方が変なこと書くわけないでしょ、という気持ちで読め。それでもだめだったら、どうしても腑に落ちなかったら、そこで初めて、筆者は何かごまかしているのではないか、筆者自身も解っていないのではないか……と考えよ。

 なかなか難しいわ。わたしは軟弱だから、そんなにがんばれない。解らぬのはわたしがばかだからだと居直るか、解るように書けよと八つ当たりするか。

 

 

月20日(火)

市ヶ谷のキンクロハジロは帰ってしまった。金曜の朝にはいたのに、昨日の朝はいなくなっていた。かわりに鷺が一羽、ぼうっと立っていた。

そこで今日は記録的な暑さの中を不忍池まで行ってきたが、やはりここももぬけのから。鷺が数羽いるだけで、なぜかカルガモすらいなかった。

 

信じて疑え。教条的な盲信は、書き手に対してかえって失礼。

ごもっとも。肝に銘じます。

 

 

月21日(水

鬼神相手にかなわぬ恋に身を焼くのもむなしいので、近代から離れて古典に埋もれてみた。始めてみれば古代史もおもしろい。王侯貴族の事績だけではなくそこから透けて見えるものがあることもわかり、それが近代にまで通底するものかもしれないという気もして、興味をかきたてられもする。 

所詮わたしのすることだから、古典を読めば先生が喜ぶかなという思いも、始終ちらちらしているし。

それで結局は古典と並行して近代史関係の本も読み始めてしまうことになる。

昨日久しぶりに楊篤生の手蹟を拝んだ。字の善し悪しなどわからない。ただ、彼の実在を感じるだけ。なぜか顔写真よりも手蹟のほうが、著作だけ思想だけではなく肉体を持って生きた存在だったということを、強烈に感じさせてくれる。

文字の列が左へ左へとずれていて、まっすぐ書けよと言いたくなる。でも、わたしのように不器用ゆえに曲がるわけではないだろう。スコットランドでの作だから、亢進する頭痛と戦っていたのだろうし、目も悪かったのかもしれない。

「再侄守仁敬呈」と添えられている。「侄」は甥のこと。「再」がついてニ世代下であることを示す。これで、彼が「叔祖」(=大叔父)と呼んでいた楊昌済先生に贈られたものであることがわかる。

楊昌済先生はアバディーン大学で学位をとった後、ドイツに回ってしばらく視察してから帰国した。その数ヵ月間、これを大事に持ち歩いていたのだろう。革命勃発で急ぎ帰国した章士サに託したとは考えたくない。

二人が親しく交わったのがわかっているのは二十歳くらいからだが、同族なのだからもっと早くから見知っていて付き合いもあったと考えるのが自然だろう。家も遠くないし。

二十歳くらいからは、一緒にお泊りしたり山に登ったりして、きゃっきゃっ言っていたのだろうな。まだ二人とも弁髪を下げて、生員(秀才)の青い制服を着て。

 

 

月29日(木)

 ゆうべ探しものをしていて、牧野信一を発見した。このあいだから読みたくて探していたのでうれしかった。

 でも探した本は結局みつからなかった。わたしの目は節穴なので夫にも見てもらったが、だめだった。やはり書架の整理は必要だ。P.K.ディックの隣に宇野浩二がいたりするから。

 

 再会を祝して、今日はマキノと一緒に公園へ。ここのところ、夫が起きぬ休日は、ベンチで本を読むようになっている。屋外で読む楽しみは、昔ぐれていたころに覚えた。

 やっぱりマキノは好きだ。久しぶりに読んで、改めて思った。

 けれどもわたしが持っているのは岩波文庫の一冊だけだ。もっと読みたい。

 

 

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