千歳村から〜日記のようなもの      

 

2004年2月1日〜

 

 6日 8日 10日 15日 22日 28日

 

月1日(日)

 年末に神保町でやっていた特価市のようなところで、復刻版大杉栄全集の一冊を入手した。別に大杉が目当てではなく、これがクロポトキンの翻訳を集めた巻で、未読の「青年に訴う」が入っていたから。

 楊篤生が読んだ「青年訓」は、これのことに相違ないから、どうしても読みたかったのだけれど……。

 大晦日、夫がTVもビデオも占領して格闘技番組を三つ並行して見ているので、お相撲以外の格闘技が苦手なわたしは、この本をぱらぱらめくっていた。巻のほとんどを占めるクロポトキンの自伝は、岩波文庫で読んで知っているから、好きな場面を選って拾い読みした。原文が英語で書かれたものだからしかたないのだが、大杉の訳は固有名詞がひどい。ニコライはニコラスだし、姉の名がヘレンになっている。エレーナなのに。さすがにピョートルはピーターになっていないけれど。なお、エカチェリーナはカザリンに。

 

 そしていよいよ「青年に訴ふ」を! と思ったが、ちょっとだけ読んでやめにした。長くもない文章だけれど、気軽に読めるものではないとわかったから。

 クロポトキンは冒頭で宣言している。この文章は青年諸君のためのものであり、頭と心の老人共は相手にしないこと。その青年というのも、十八か二十歳くらいで、修業や学業を畢えて社会に出ようとしている者、ちゃらちゃらした遊び人のどら息子ではなく、自らが身につけた技術や学問を社会のために役立てようと真摯に望んでいる者であること。

 これを楊篤生が読んだのだ。もちろん彼は十八でも二十歳でもなく、数えで四十になるのだが、頭も心も全然老人ではない。そして彼が幼時から積んだ学問が、己一身の出世のための具ではないことは、彼の経歴が物語っている。その彼がこれを読んで、何を思っただろう。

かれはアナキズムを胡散臭い思想だと思っていた。二十世紀の帝国主義の世界で生き延びるのには富国強兵でいくしかないのに、アナキズムはこともあろうにその国家を廃してしまおうとする。しかも、こんなとんでもない思想が、どういうわけかヨーロッパを席巻して隆盛を極めて、呉稚暉などもすっかりかぶれてしまっている。これは一体どういうことだ? ということで、彼は「門外漢」としての関心を寄せていた。

で、読んだわけだ。この亡命ロシア人の文章を、辞書を引き引き読んだんだ。

 だからわたしも、一字一句おろそかにせず、じっくりと腰を据えて読まねばならない。クロポトキンを読むと同時に、クロを読んだ篤生をも読まねばならない。彼が何を読みとり、どういうふうに受け取ったのかを。

 そう思ったらびびってしまい、結局まだ読んでいない。

 先生には申し訳なく思うけれど、当面は古代史を優先せねばならないし。

 

 

月6日(金)

 急に思い出して、不忍池に行った。「夢のちまた」を歌いながら。途中で湯島神社に寄って、男坂の上で「宮本ここより望む」もやって。

 明日から梅まつりとのことで、既に屋台が並んでいて、せっかくの梅の香が食べ物のにおいで邪魔されていた。受験期でもあり、がさがさしていて、この時期はあまり好きではない。

池はキンクロハジロが最も多く、あとはオナガガモ。ホシハジロがちらほら。マガモも二羽いたが、この二羽が水上ですさまじい取っ組み合いを演じていた。頭の茶色いコガモが全然いないのが寂しかった。好きなのに。

 

 

月8日(日

 カスタネッツのコミがプロデュースしている、つじちゃんこと辻香織が、明日の「HEY!HEY!HEY!」に出る! ちゃんと新聞にも書いてある。でも、「極貧」ってなに?

当然、ギターはコミだよね。

エレカシが出たとき、なぜかとっても恥ずかしかった。今度もそうかな。でもやっぱりうれしい。

本当はカスタで出たいよね。フラカンだって出たんだし。

 

 

月10日(火)

 初めて見るつじちゃんは、かわいいお嬢さんだった。曲は高田渡のカヴァーで、これもなかなかよかった。

 これで売れるようになるのかな。売れていいと思うな。

 世の中、なんで売れているのか理解できないものも多い。わたしは好かぬが売れるんだろうなという次元ではなく、全く解らないものも少なくない。

 逆に、知られていないから、という以外に売れない理由の見つからないものも多くて。

 つじちゃんは売れていいと思う。売れてほしいな。そうしたらコミだけ忙しくなってしまうのかな。

 つじちゃんの後ろでギター弾いていたコミ、かっこよかったよ。コーラスもよく合っていた。元ちゃんとより合うみたい。

 

 もうすぐカスタに会える。でも、夫の調子が悪すぎる。リキッドのエレカシを欠席したときに近い。ひとりで行っていいと言ってくれてはいるけれど。

 

 

月15日(日)

 14カ月ぶりの生カスタは一人で参加。

 いやあ、よかった。幸せだ。カスタを好きで良かった。待っててよかった。

 曲は、どれをやったかやらないかは憶えているが、順番まではわからないので、順不同であげると、

 1曲目、キャラバン。

 あとは、冬のうた、似たもの同士、どうせ明日も晴れだろう、フロムスクーター、ニア、オーバーオール、知らない曲(新曲?)、

そして最後に、青と白の日々、時間。計10曲。

 青と白の日々、うれしかった。泣こうかと思った。元ちゃんは爆裂していた。

 終わってほしくなかった。これは来月も行かなくてはいけないな。腹をくくるか。カスタはわたしの人生に必要らしい。

 

 そう思って帰宅したら、エレカシのライヴの案内が来ていた。常備してある郵便振替用紙に、すぐに書き込んだ。明日、申し込む。

 

 ちょっと後ろめたいのだけどね。でも、エレカシとカスタとは、わたしの中で占める位置が違う。どちらが上とか先とかではなしに。

 

 エレカシは夫も行くが、カスタはこれからは一人で行くことになりそうだ。

 

 

月22日(日)

 昨日のこと。

 昼から二人で出かけた。明神様と孔子廟とにお参りしてから秋葉に下り、須田町の竹むらであわぜんざいを食べて帰るという、幸せな道。

 

 途中、交通博物館の前を通ったときのこと。新幹線の前に二つか三つのぼくが立ち、お母さんが写真に撮ろうとしていた。お母さんはカメラの方を向かせようと、何度も名まえを呼ぶのだが、ぼくはあさっての方を見ていて、一向に振り向こうとはしなかった。何かに気をとられ、一心にそれを見つめていて、お母さんのこともほかの周りの何事も、一切ぼくの目や耳に入っていないのが明らかだった。

 

 もうすんだようだけれど、ここのところカスタの公式BBSで、ライヴ中の写真撮影の是非について問題になっていた。結論としては、ファインダーをのぞいている間に、貴重なものを感じそびれているのではないか、それはとても残念なことなのではないか……ということになったようだ。

 つまり、わたしのことばに翻訳すると、「写真撮ったりメモとったりする暇があったら、一瞬一瞬を全身全霊で感じろよ」ということ。それが口で言うほど簡単なことではないことは、わたしもよく知っている。先日のライヴのときも、頭の半分では帰ってから記録するための文章化をしてしまっていて、それに気づいては注意を引き戻すという繰り返しだった。今ここで、すぐそこで、元ちゃんが歌っているのに。その宝物のような一瞬一瞬を全身全霊で受けとめたいのに、頭が半分醒めている。それが悔しかったから、今回は帰宅してから感想をまとめなかった。純然たる記録として曲目を書き留めるだけにした。

 

 写真を撮る人の気持ちも解る。あとで思い出すよすがが欲しいのだ。すばらしい時間をすごしたと思うから、あとで思い返してまたそれに浸りたいと、そのための手がかりにしたいと思うのだろう。でも、それは間違っている。写真に撮っても、たとえ録音や録画をしても、あの時間を再現することは絶対にできない。それは断言できる。味わいたかったら、また会場に足を運ぶしかない。残念だし、ある意味残酷だが、それが本当のことだ。

 

 スナフキンも言っています。皆が僕に旅の話をさせたがるけれど、そんなことをしたら、本当に僕が旅のことを思い出そうとしたときに、出てくるのは旅のことではなくて、僕が話したことばだけになってしまうって。

 

 「交通博物館の前にて〜○○ちゃんと新幹線」という証拠写真は、お母さんのために必要なのだろう。本当に一瞬一瞬を全身で感じとっているぼくには、それは要らないものなのだと思う。

 

  

月28日(土)

 中学のとき、プールサイドをキセキレイが尾を振り降り歩いているのを、校舎の窓からずっとながめていたことがあった。

 セキレイが尾を振るのはなぜか。もともとセキレイには尾が無く、長い尾を持っていたミソサザイから騙し取ったため、セキレイは尾がまだついているか気にして始終振り、ミソサザイには尻尾がついていないのだ。小学校のときに読んだ本に、そう書いてあった。

 

 ミソサザイは写真やTVでしか見たことがない。キセキレイも、ずいぶん長いこと見ていない。千歳村にいるのは、ハクセキレイばかりだ。

 

 沈丁花の開花と同時に花粉が暴れ出した。今年こそは薬なしで乗り切りたいと思い、いいと言われることは可能な限り試している。その成果か、今日は薬なしで過ごせた。口の中がかゆいから、確かに花粉は暴れているのに、鼻はたいしてぐずぐずになっていない。

 ありがたいけど、同時にいろいろ試しているから、どれが効いたのかわからない!

 

 

 

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